第18話

「私、真ん中で弾きたいんだけど」


 椅子を持ってきて田中さんに声をかける。

 鍵盤を真ん中から分けて右手を弾く人はピアノの右側、左手を弾く人はピアノの左側というように使うことができたら、綺麗に右と左にわかれて座ることができる。でも、目の前にある楽譜は連弾用に編曲されたものではないし、右手のほうが弾く範囲が広いからできれば真ん中で弾きたい。


「これくらいでいい?」


 田中さんが左に寄って聞いてくる。


「いいよ、そこで」


 私は空いたスペースに椅子を置いて座る。


「ちゃんと左に行ったんだから、ちゃんと弾いてよね」

「努力はするけど、期待しないで」

「期待してる」

「期待はしなくていいから。あと、ゆっくりで」

「ゆっくり?」

「……もしかして、自分が弾いてる速さで弾くつもりだったわけ?」

「当たり前じゃん」

「無理だから」


 たった五分の譜読みで田中さんが弾いていた速さで弾けたら、私はコンクールに出まくっている。人前で弾く自信がないなんて口にすることはないと思う。


「じゃあ、一回目はゆっくり」


 何度も弾くことを前提にしたような言葉がこつんと頭にぶつかり、田中さんを見た。


「一回目?」

「せーのっ」


 私の声には答えず、田中さんが断りもなく拍を取って弾き始め、心の準備がないままピアノの音が響く。


 Op.10-1は左手から始まる。

 彼女が弾き始めたら必然的に私も弾くことになり、慌てて指を動かす。それでも、ゆっくり、というリクエストは受け入れてくれたようで、曲のテンポを決める“せーのっ”という声は遅めになっていた。


 さっきまで聴いていたOp.10-1とはまったく違う速さで曲が進んでいくが、ゆっくり弾けば上手く弾けるというものでもない。それなりに指は動いているけれど、それなりはそれなりでしかなく、二ページ分のOp.10-1はそれなりの出来で終わる。


「下手」


 情けない容赦ない声が左から飛んでくる。


「うるさい。五分しか練習してないのに弾けるわけないじゃん」

「そうだけど、もうちょっとなんとかならないの?」

「もともと人前で弾くの苦手だし、田中さんの前でこうして弾いてることが奇跡なんだから我慢しなよ」

「安い奇跡だよね。人前って言ったって一人しかいないんだし、いないようなものでしょ。私のことなんて気にしないで弾きなよ」

「こんなに近くにいて気にしないなんて無理」


 透明人間にでもなってくれるならいいが、見えている限りいないものとして扱うのは難しい。しかも、一緒に弾いているのだからどうしても人がいることを意識する。


「じゃあ、もう一回。少しテンポ上げるよ」

「無理だって」


 右手の存在は軽んじられているから、当然、私の言葉は田中さんに届かない。


「せーのっ」


 二回目の“せーのっ”も心の準備ができないまま聞こえてきて、私は右手を動かす。


 さっきよりも“せーのっ”が速い。


 あわあわと弾き始めたOp.10-1に心が追いつかない。音を飛ばし、つまずきそうになりながら右手を動かすけれど、左手は右手を待ってくれない。私の手はドタバタと走り続け、慌ただしく二ページ分を弾く。


「さっきより下手」

「上手くなる要素、どこにもなかった。こういうのって、息を合わせて弾くものでしょ。今の速さだと息を合わせるどころの騒ぎじゃないんだけど」

「次はちゃんとした速さで」

「ゆっくりで」

「ちゃんとした速さで」


 聞いたばかりの言葉がまた聞こえてきて、私は立ち上がる。


「田中さん。右手の意見聞いてゆっくり弾いてよ」

「弾けないなら両手で弾けば? そしたらなんとかなるでしょ」

「右手で弾くところなんだし、右手で弾く」

「本人がいいならいいけど」

「いいよ」


 短く答えると、田中さんがいきなり「せーのっ」と言うから私は慌てて椅子に座って彼女に合わせる。


 練習室には聞くに堪えないOp.10-1が響いている。


 彼女は息もテンポも私に合わせるつもりがない。それは私の声を聞こうとしない態度を見ればわかる。どういうつもりかわからないが、自分から誘ってきたのだからもう少し気持ちを寄せてほしいと思う。二人が歩み寄って合わせなければ一つの曲にならない。バラバラの音は絡み合うことなく空中分解してしまう。


「ちゃんと弾いてよ」


 楽譜を見ていても楽譜通り弾けない私はミスタッチだらけで、左から文句が飛んでくる。そして、曲が終わり「もう一回」と田中さんが言った。


「無理」


 左手に文句を言うが、「もう一回」と返ってくる。そして、右手の意見を聞く気がない左手が鍵盤に触れ、ピアノは音を鳴らす。私は自分勝手な左手を止めたくて、田中さんが手を止めたくなる言葉を口にする。


「唄乃、待って」


 彼女の下の名前を呼ぶと、驚いたように左手が止まった。


「どさくさに紛れて人のこと名前呼びしないで」


 そう言うと、田中さんが左手を動かそうとするから、私はまた彼女に声をかける。


「じゃあ、そっちも私のこと音瀬って呼べばいいでしょ」


 唄乃が私を驚いたように見る。

 そして、視線を鍵盤に落とし、小さく息を吐いてから言った。


「交代」

「え? 交代?」

「右と左、交代」


 唄乃が立ち上がり、私を見る。


「音瀬、そこどいて」


 邪魔、と言いたげに唄乃が私の制服のブラウスを引っ張る。

 自分で言ったものの、突然、音瀬と呼ばれて少し驚く。だから、気持ちを落ち着かせるために唄乃に問いかけた。


「交代する理由は?」

「音瀬に右手任せてても、曲にならないから」


 唄乃が酷いことをさらりと言って、私のブラウスをまた引っ張ってくる。


「ほんっと腹立つんだけど。なんなの」


 唄乃は人の皮を被った悪魔だと思う。

 でも、私が右手を弾いていても曲にならないのは事実だから、仕方なく立ち上がって唄乃と入れ替わる。そして、左手を鍵盤の上へ置いた。


「いくよ。せーのっ」


 静かに声をかけ、正しいテンポでピアノを鳴らすと、唄乃の右手が正しいOp.10-1を弾き始める。息がぴったり、とは言わないけれど、私が右を弾いていたときよりもはるかにマシな音が練習室を満たしていく。


 さっき私が弾いていた右手とまったく違う。

 軽やかに動く指が紡ぎ出す音は心地が良い。

 右手が私のものだったらいいのに、と思う。


 練習室に鳴り響くOp.10-1は百点にはほど遠いけれど、今日弾いた中で一番息が合っていて、気持ちを弾ませる。でも、二ページ分はあっという間だ。もう少し弾きたいというところで唄乃が鍵盤から手を下ろした。


「今のは悪くなかったと思う」


 ぼそりと言うと、唄乃が「それは私が右を弾いたからでしょ」と返してくる。


「左も褒めなよ」

「左は弾くところ少ないし、今くらいできて当たり前でしょ」

「厳しくない?」

「厳しくない。まあ、でも、人前で弾けたみたいだし、良かったんじゃない」

「え?」


 唄乃の声に思わず彼女を見る。

 練習でも人が見ていると緊張する。


 でも、今は――。


 まさか、と思って、そんなわけはないと打ち消す。実技試験の三日前に、練習する時間を削ってまで私のためにそんなことをする意味はどこにもない。


「じゃあ、時間だから帰る」


 唄乃が立ち上がって、楽譜を片付け始める。


「え?」

「時計」


 練習室の壁にかけてある時計を見ると、予約した時間がもう終わるという時間になっていて、私も折りたたみの椅子を片付ける。ガタガタと椅子を元あった場所に立てかけていると、唄乃の声が聞こえてきた。


「ねえ、音瀬。コンクール出なよ」

「……出ない」


 後ろから聞こえてくる声に壁際でぼそりと答えて、視線を床へと落とす。


「私がコンクールでるの、音瀬がでると思ったからだから」

「え?」


 考えたことのなかった言葉に振り返ると、唄乃がいつの間にか私の後ろに立っていた。


「だから、でてくれないと困る」


 唄乃の表情は、練習室に入ってきたときと変わっていない。

 だから、彼女がなにを考えているのか私にはわからない。


「なんで私がコンクールにでると、唄乃もでることになるの?」

「この中、空っぽなの?」


 唄乃が私の額をつつく。


「失礼じゃない? 頭の中、みっちり詰まってるに決まってるじゃん」

「だったら、大丈夫。でなよ」

「意味わかんないんだけど」

「わかんなくても大丈夫。じゃあ、先に行くから」


 大丈夫。

 根拠のない唄乃の声が頭に残る。


 練習室のピアノの前、私は動くことができない。

 みっちり詰まっているはずの頭も動かない。

 私は次に練習室を使う予定の生徒が来るまで、ただそこに立っていた。

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