第17話

 練習室に響く音は、やっぱり息苦しい。

 正確には、もどかしい、かもしれない。

 わかりたいけれど、わからない。

 言葉にならない想いが首に巻き付き、気道を狭めている。


 きっと、彼女の音はわからないものを塗り潰そうとしている。


「先生が言ってた、ちょっと時間がかかる、ってどれくらいの時間なんだろうね」


 曲の途中、手を止めて田中さんがぼそりと言う。


「どれくらいって。……もう見つかってるんだと思うけど」

「倉橋さん、ちゃんと聞いてた?」

「聞いてた。一応、心らしきものあったもん」

「一応って」


 田中さんの言葉に、失言だった、と思うが、訂正はしない。

 それよりも言いたいことがある。


「心ってなんなんだろう、見つけたいって思う気持ちが、心なんじゃないのかな。だって、心がない人は心がなんなんだろうなんて考えないはずだし、見つけたいとも思わないんじゃない?」


 心臓でもなんでもない見えないなにか。


 田中さんが言っていたように心なんて形がないものだから、ないように思えるかもしれないけれど、ちゃんとどこかにあるのだと思う。ここにある、これだ、と言い切ることはできないけれど、田中さんの演奏は心が欠片もないものではない。よく聴けば、どこかに心というものが隠れているように思える。


「わかんない」


 田中さんが静かに言って、目を伏せる。

 そして、白鍵を鳴らして「倉橋さん」と言った。


「なに?」

「今、10-1弾いてみて」

「え、なんで」

「気持ちが大事、って前に廊下で私に言ったよね?」

「言ったけど」

「じゃあ、その“気持ちが大事”なところ見せてよ」

「10-1なんて練習してないし、急に心を込めて演奏しろって言われても無理なんだけど」

「なんのために楽譜があると思ってるの」

「楽譜があればなんでも弾けるってわけじゃないって、田中さんだってわかってるよね? 弾きこなすのなんて無理じゃん」


 楽譜は読める。

 でも、読めるから弾けるわけではない。


 楽譜が読めることと弾くことはイコールにはならないし、なんとか弾けたとしても音を鳴らすことができたくらいのものにしかならない。しかも田中さんが弾けと言っているのはOp.10-1で、練習していたとしても簡単には自分の思うOp.10-1を弾くことはできないと思う。


 それに、私は人前で弾くことが苦手だ。気持ちが大事なところを見せろと言われて簡単に見せられるような人間ではない。そんな度胸や自信があったら、コンクールに出ないなどと言ったりはしない。


 今日の彼女はどうかしている。


 饒舌なだけでも驚くべきことなのに、おそらく誰にも言っていないであろう心のありかの話をして、私にOp.10-1を弾けと無理難題を押しつけてきている。


「じゃあ、倉橋さん右手やって」


 また田中さんがわけのわからないことを言う。


「右手って?」

「10-1の右手担当」

「は?」

「連弾ってこと。倉橋さんが右手、私が左手を弾くの」

「分けて弾くってこと? この楽譜で? 連弾用じゃないじゃん、これ」

「弾けないこともないでしょ、全部じゃなくて二ページくらいなら。なんとかしなよ」


 田中さんは馬鹿だと思う。

 わざわざOp.10-1を右手と左手で分けて弾く意味がわからない。


「いや、なんとかならないでしょ。お互いの体が邪魔になりそうだし、右手のアルペジオって練習なしでできる感じじゃないよね? せめて音が少ない左手にしてよ」


 性格が悪いと思う。

 片手ならなんとかなるでしょ、と言っているが、右手は四オクターブを超えるアルペジオが続く。


 分散和音。


 とも言うアルペジオは、簡単に言えば、和音を構成する音を同時に弾くのではなく一音ずつ順番に弾いていくことだ。それを高速でミスなく続ける右手は難しい。


「そういうところが自信のなさに繋がってるんじゃないの」


 私が一番気にしていることを田中さんが言う。


 今のはわざとだ。

 わかっていても腹が立って、立ち上がる。


 ここで座って待っていれば自分の練習時間が回ってくるはずだったのに、話が違ってきている。


 私は人前で弾きたくない。

 彼女が自分の練習時間になにをしようと勝手だけれど、Op.10-1の連弾などというわけのわからないことに私を巻き込むのはやめてほしいと思う。


 苛立つ気持ちを抑えて、折りたたみの椅子を片付けようとすると、田中さんが楽譜を持って私の前へやってくる。


「五分、譜読みする時間あげる」

「え、短すぎる。大体、やるって言ってない」

「つべこべ言わずに楽譜見て」


 田中さんが問答無用で私に楽譜を押しつけてくるから、弾くと言っていないOp.10-1の譜読みをすることになる。


 私はため息をつきながら、ピアノの前へ行く。

 田中さんが場所を空けてくれ、楽譜にざっと目を通して弾いてみる。


 初めて弾く曲の楽譜を見て雰囲気を掴み、一通り演奏できるようにする譜読みの時間を与えられても、五分ではまともに弾けるとは思えない。


 田中さんに心があるなんて思ったけれど、それは気のせいだ。

 彼女に人の心はない。

 あるとしたら、鬼か悪魔の心だ。


「そんな自信なさそうな顔で譜読みしてても弾けるようになるとは思えないけど」

「うるさい」


 田中さんの弾いたOp.10-1が頭の中で鳴り響いている。

 与えられた時間が五分だと思うと気が焦る。


「倉橋さん、五分経った。椅子持ってきて」

「え? 田中さんが持ってきなよ」

「それ、私が座ってた椅子だから私が座る。倉橋さんは、さっきまで自分が座ってた折りたたみの椅子持ってきて」


 暴君過ぎる。

 でも、言い争っていても仕方がない。

 私は立ち上がり、折りたたみの椅子を取りに行った。

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