第16話

 学校から練習棟へ向かう。

 昼休みに三時間というわけにはいかなかったけれど、時間ギリギリまで練習をして、放課後も今から練習をする。いくら練習しても前へ進んでいる気がしないが、練習をしないわけにはいかない。


 一日が四十八時間あれば、なんて考えるが、四十八時間になったらさらに倍になってほしいと考えるだろうから二十四時間で我慢しておくしかない。


 ほっぺたをぺちりと叩いて練習棟に入る。

 一階の廊下を歩いて真ん中の部屋。

 予約をした練習室に入ると、田中さんがいた。


「なにか用?」


 愛想の悪い声が響く。


「なにかって、練習しにきただけなんだけど。田中さん、部屋間違ってない?」

「間違ってるのは倉橋さんでしょ」


 鞄から楽譜を出しながら田中さんが言う。


「ここ、私が予約取ってるんだけど」

「それはこっちの台詞。今日、ここの予約してるの私だけど」


 間違っているのは相手で、合っているのは自分。

 意見の一致がこれほどまでに嬉しくないシチュエーションは初めてだ。

 私たちは顔を顰めながら、練習室の予約を確認する。

 そして、二人で大きなため息をついた。

 

「倉橋さん、他の部屋使ったら? どこか空いてるでしょ」

「田中さんこそ、他の部屋にしなよ」


 一致した意見は間違いではなかった。

 間違っていたのは予約状況のほうで、手違いがあったらしい。


 面倒くさいことになったな、と思う。

 練習室は空いていれば予約をしていなくても使える。そして、普段なら空いている練習室もあるから、予約をしていなくてもなんとかなることが多い。でも、今日は実技試験の三日前だ。練習室が空いている可能性は限りなく低い。


「……時間半分に分けて、順番にピアノ使うのは?」


 私は現実的な提案をする。

 練習棟の練習室を順番に見て回って空いている部屋を探す、なんて無駄足になりそうなことをするよりも、予定の半分の時間でも確実に練習できるほうを選ぶべきだ。


「それでいいよ。どっちが先に使う?」

「じゃあ、田中さんで」


 先に弾くことにすると、田中さんの前で弾くことになる。でも、あとから弾くことにすれば、先に弾いてすることがなくなった田中さんに帰ってもらうことができる。


「わかった」


 そう言うと、田中さんが手に持っていた楽譜を譜面台に置く。

 私は練習室の隅に置いてある折りたたみの椅子を壁際に置いて、座る。スカートをぴっと引っ張ると、田中さんのOp.10-1が鳴り響く。


 練習室の前で聴いたときとは違って、音がはっきりと聞こえ、鍵盤の上を滑らかに動く手が見える。


 田中さんはミスしない。

 彼女の手は、ショパンの「十二の練習曲 作品十」の中でも難曲として知られているこの曲を流れるように速く正確に弾いている。


 中学生だった田中さんも、今と変わらず正しい音を響かせていた。


 規模の大きなコンクールで優勝したことのある彼女の演奏は、インターネットを探せば聴くことができる。その映像を見た過去の私は、彼女の技術に驚き、この音にもっと色がつけばいいのにと思った。それは今も変わらない。練習室を満たす音は白だ。感情が抜け落ちた音が練習室を白く塗っている。でも、漂白しきれない感情の欠片が音には残っていて、どこかから見えそうで気になる。隠れた色を見たいと思う。


 田中さんの右手を見る。

 鍵盤の上を左から右へ、右から左へと滑らかに動いてる。


 ひたすら正しいと思う。

 でも、正しさは息苦しさとなって私にまとわりついている。なにも間違ってはいない音が首に張り付き、じわじわと私を締め付けてくる。


 制服のネクタイを緩めて、ゆっくりと息を吐く。


 田中さんの音で白く塗られた練習室の壁が迫ってくるようで、目を閉じる。感情がまったくない人間なんていないはずで、田中さんにも感情があるはずなのに、どうして彼女の音にそれが浮き出ることがないのか不思議に思える。


 もしかしたら、感情的な私と感情が足りない田中さんを足して二で割ったら丁度良いのかもしれない。


 目を開けてスカートに視線を落とす。

 ネクタイを触って、ぴっと引っ張ったところで曲が終わる。


「どう?」


 問いかけられて田中さんを見ると、彼女が指先で鍵盤を撫でた。


「どうって?」

「10-1聴いた感想」

「上手かった」

「それはわかってるから、もっと他の感想」


 上手いは大前提で、口にするほどのこともない感想だというのはかなりの自信家だと思う。でも、反論する余地がない演奏だったことも事実だ。


「天才的だった」


 仕方なくぼそりと答えると、田中さんがつまらなそうな声で言った。


「天才、か。今の嫌味って感じじゃなかったから褒め言葉で使ってるんだろうけど、雑な褒め言葉だと思う」

「……ごめん」


 悪い意味で使ったわけではないけれど、雑に褒めた、というのは間違いない。真面目に考えて出した答えではなかった。


「倉橋さんに聞いた私が馬鹿だった」


 田中さんが淡々と言って楽譜を見る。

 そして、息を吐いた。


 私は彼女に言うべき言葉を探して、スカートを握りしめる。


 黒いピアノ。

 田中さんの白いブラウス。

 しなやかな手。


 私は、彼女が音を鳴らす前に口を開く。


「田中さんなら、もっといい10-1が弾けると思う」

「もっといいって?」

「……こう、なんか、今すぐ立ち上がりたくなるような?」


 なにかが足りない。

 心を込めて。


 そのどれもが正しくて、違うような気がして、違う言葉を探してみたけれど上手く言葉にできない。


「倉橋さん、語彙力」

「国語の先生じゃないんだから、そんなこと求められても困る」

「でも、なんとなく言いたいことはわかる」


 田中さんが静かに言って、鍵盤を撫でる。

 目を閉じて、うつむいて、一呼吸。

 そして、次の瞬間、音楽が鳴り響く。


 ――音が変わった?


 曲はさっきと同じOp.10-1だ。

 でも、どこか違う。


 ピアノは鍵盤に触れれば誰でも音を出すことができるけれど、誰もが同じ音を出せるわけではない。触れる人によって音が変わるし、同じ人が弾いてもそのときどきによって響きが変わる。

 でも、その音の違いを明確に言葉にしろと言われると難しい。


 ただ、変わったことはわかる。


 今、練習室を満たしている音は相変わらず白いけれど、白くて白い音の向こうに今までで一番色を感じる。


 さっきよりも、息苦しい、と思う。


 鼓膜を震わす音は、彼女に首を絞められたあの放課後を思い出させる。さっきは首に張り付き、じわじわと私を締め付けていただけだった音が、今度は意思を持って私の首を絞めているような気がする。


「倉橋さん、今のは?」


 いつの間にか曲が終わっていて、田中さんが私を見ている。


「――なんか苦しかった」


 今度は、問われたことに正直に答える。


「そう」


 田中さんが、ふう、と息を吐いて黒鍵を鳴らす。

 そして、体を私のほうへ向けた。


「倉橋さんは“心”ってどこにあると思う?」


 予想もしていなかったことを聞かれて、私は奥枝先輩が練習室でしたように胸を押さえて「ここじゃない?」と答える。


「まあ、みんな大体そう言うよね」

「田中さんはどこだと思うわけ?」

「胸が熱くなるとか、想いを胸に秘めるとか言うし、ここ、なんだとは思うよ」


 そう言って、田中さんが心臓のあたりを指差す。そして、つま先でトンと床を叩いてから言葉を続けた。


「でも、ここって心臓があるところじゃん。心って心臓ってことなの?」

「そうではないと思うけど」

「じゃあ、“心”ってなんなんだろうね。心臓でもなんでもない見えないなにか。そんなよくわからないもの、どこかでなくしちゃってもわからないんじゃないの」

「……なくしたの?」


 抑揚がなく、淡々とした声で話す田中さんに問いかける。


 あるのに見えないもの。

 ひたすら白い演奏の下にあるもの。

 なくしたものを埋める白。


 私は勝手にそんなことを想像しながら彼女の声を待つ。

 でも、彼女は喋らない。

 だから、聞こえてこない声の代わりに私が言葉を繋げる。


「心ってなくすものじゃないんじゃない? なくしたと思ってもどこかに隠れてたりしてさ、そのうち見つかったりとか」

「……子どものころ、ピアノの先生に今みたいなこと質問したら、先生も倉橋さんと同じようなこと言ってた。それで、いつ見つかるんですかって聞いたら、それはすぐかもしれないし、ちょっと時間がかかるかもしれないから、今は唄乃ちゃんが今できることをしようかって」


 人にはできることとできないことがあって、私はできないことをしないだけ。


 廊下で聞いた田中さんの言葉を思い出す。

 彼女はどこにあるのかわからない心を探す代わりに、技術を磨いてきたのかもしれない。


「……それで、見つかったの?」


 田中さんがなんと答えるか予想できるけれど、聞いてみる。


「見つかったように見える?」


 そう言うと、田中さんがOp.10-1を弾き始めた。

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