第8話

 さっきの私はあまりにも子どもっぽかった。


 練習室に入ってまで文句を言うほどのことではなかったし、乗り込んで喋ったところで田中さんに響くわけがなかった。実際になにも感じていないようだったし、無意味なことをしてしまったと思う。


 すぐ感情的になるのは私の悪い癖だ。

 物に当たるのも良くない。

 自分が痛い思いをするだけだ。

 怪我をしたら実技試験どころの話ではなくなる。


 わかってはいるけれど、子どものころからずっとこうなのだから簡単には変わらない。高校生にもなってと思うが、感情を制御するのは難しい。


 私は奥から三番目の練習室に入り、硬い椅子に座ってピアノの蓋を開け、譜面台に楽譜を置く。

 ため息を一つついてから、楽譜をめくってペダルに足を乗せる。


 ピアノを習い始めたばかりのころ、ペダルを踏みたいと駄々をこねて先生を困らせたっけ。


 あれからずっとピアノと向き合ってきて、いろいろな曲を弾いて、今もこうしてピアノに触れている。

 あのときよりも上手くはなったと思うけれど、足りないものがたくさんある。


 私だけの音を鳴らしたいと思う。

 世界の色を変えるようなピアノを弾きたい。

 そういう自分になれるかどうかまったくわからないけれど、そう思う。


 私は楽譜をじっと見る。

 私だけの音を鳴らすまでに足りないものを補わなければならない。田中さんが持っている技術もその一つだが、彼女は遙か遠くにいる。そして、それよりもなによりも――。


 私は胸を押さえる。

 心臓がどくんと大きくなる。

 大勢の人の前でピアノを弾ける気がしない。


 狭い練習室のほとんどを占めるアップライトのピアノが小さく見える。子どものころは先生の家にあるグランドピアノだけではなく、自分の家にあるアップライトのピアノも大きく見えた。あのころよりも体が大きくなったのに、肝心な部分が大きくならない。コンクールと聞いただけで、心臓が縮こまって情けなく震える。


 鍵盤にそっと指を置く。

 楽譜を確かめてから、深呼吸を一度する。

 耳を澄ませても、隣の音は聞こえない。

 ゆっくりと音を鳴らす。

 静かに『Op.オーパス10-8』を弾く。


 一度、二度。

 三度と弾いて、一息入れる。


 そして、四度目。

 練習室に明るい『Op.10-8』を響かせる。


 前川先生の前で弾いたときよりも、滑らかに指が動く。

 鳴り響く音は理想ではないけれど、レッスンのときに比べてマシに聞こえる。指がもたつくところもあるが、気持ちがいい。指は鍵盤を駆け、光を生み出す。ピアノから飛び出した音は、軽快なリズムで練習室を跳ね回る。


 一人でピアノを弾いていると落ち着く。


 子どもの頃から飽きるほど弾いているのに、誰かに聞かれていると思ったら手が思うように動かなくなる。先生だけならいいけれど、先生ではない誰かが増えると増えた分だけ、私の音が私の音ではなくなってしまう。


 前川先生が言っていたように、上手くなるには練習が必要だ。他のどんなものだってそうだけれど、練習せずに上達したりしない。休めば休んだだけ、指が動かなくなる。


 田中さんのことを気にしている時間があるなら弾くべきだ。でも、弾いている間も彼女のことがちらつく。隣にいると思うと、苛立つ。


 練習室を軽やかに駆け回っていた音が乱れる。

 ミスタッチが増える。

 鍵盤の上を駆けていた指が止まり、ため息が出る。


 違う。

 私が弾きたいOp.10-8は、雨雲を吹き飛ばすくらいキラキラしているはずだ。


 私は練習室の壁を見る。

 隣に田中唄乃がいると思うだけで腹が立つ。


 首を絞められたくらい、いや、くらいと言っていいものではないと思うが、とにかくあの短い時間が私に張り付き、剥がれない。彼女のピアノは気になるものではあったけれど、ここまで気にしたことはなかった。それなのに今は気になって仕方がない。


 彼女が私の音を狂わせていると思うと、無理矢理にでも好きになったほうがいいのかもなんて馬鹿な考えが頭に浮かぶ。


 好きになれるわけなんてないけれど。

 いや、好きになる必要なんかどこにもない。


 鍵盤に指を置き、もう一度弾く。

 レッスンのときよりはいいけれど、今日の私はやっぱりあまり調子が良くない。

 黒くてピカピカのピアノがくすんで見える。


 隣を気にするな。


「ドレミ、ドレミ、大丈夫」


 私は小さく呟いた。

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