第9話

 良い日もあれば悪い日もある。

 昨日も今日もどちらかと言えば悪い日だったけれど、悪い日があれば良い日だってある。そう思いながら、練習棟から寮の部屋へ戻る。


「ただいま」


 扉を開けると、ベッドに寝転がっていた美空が体を起こした。


「音瀬、財布でも落とした?」

「なんでそう思うわけ?」


 鞄を机に置いて問いかける。

 寮の部屋はそう広くはないが、自分専用のベッドと机、クローゼットが用意されている。親元を離れ、県外の寮で暮らすなんて不安しかなかったけれど、同室の美空と気が合うし、先輩たちもいい人が多いから居心地が良い。


「どんより、って言うか暗い顔してるから」


 入学してから三ヶ月、美空と寮で暮らした時間は短いが、いつもと同じ顔をしているつもりの顔からなにかがあったことをお互いに察することができるくらいに親しくなっている。


「どんよりしてるかもだけど、財布は落としてない」


 私はベッドに座って美空を見る。


「じゃあ、なにがあったの? わかった。前川先生に怒られたとか?」

「違うけど、大体そんなとこ」

「レッスン上手くいかなかった?」

「んー、調子悪かった」


 はあ、とため息をつくと、美空が空気を変えるようににこりと笑った。


「私は今日、最高だったけどね」

「なにかいいことあったの?」

「練習室に行く途中、千代ちよさまと肩がぶつかってさ。そしたら、ごめんなさいね、大丈夫かしら、って言われた」


 美空は神に祈るように両手の指を組むと、夢見る乙女のように天井に視線をやった。


山吹やまぶきさんっぽい。お嬢様だもんね」


 山吹千代女やまぶきちよじょ

 隣のクラスの子で、美空の憧れの人だ。


 ピアノではなく、フルートを専攻しているから交流はあまりないが、美空のように彼女のことを影で千代さまと呼んでいる生徒が他にもいる。それどころか、普通科の生徒ですら一方的に彼女のことを知っている。


 それは、山吹さんが音楽科の生徒に当たり前のようにいる社長令嬢だとか、名家のお嬢様だとかの一人であることに加えて、名前が珍しいことが理由になっている。


 千代女ちよじょだもんなあ。


 何度聞いても、生まれてくる時代を間違えたとしか思えない。


「千代さまはお嬢様どころか、貴族だよ。貴族。フルート吹いてるところなんて、どう見ても貴族って感じだもん」


 うっとりとした声で美空が言う。


「千代女って言う名前からすると、貴族って言うより俳人だけど。確か、江戸時代の俳人から名前とったっていう話じゃなかったっけ?」


 どんな句を詠んだ俳人なのかは知らないが、誰かからそういう話を聞いた。戦国時代にも千代女という名前の人がいるけれど、そっちの千代女ではないらしい。


「俳人じゃなくて貴族なの。千代さま、ドレスが似合いそうな美人じゃん。俳人だったら着物着てフルート吹きそうだし、フルート吹き終わったら、では一句、とか言いだしそうでイメージと違う」

「一句詠むフルート奏者もいいんじゃないの」

「フルートや、ああフルートや、フルートや。――音瀬、千代さまにこういう句を詠んでほしい?」

「……山吹さんがどうとかっていう問題じゃない、それ。その俳句、どうかと思うよ」


 私は美空の安直すぎる句に大きく息を吐く。

 山吹さんがフルートを吹いたあとに俳句を詠むことがあったとしても、絶対に美空が詠んだような句は詠まない。一週間分の夕ご飯のおかずをかけたっていい。


 それにしても。

 美空と話していると、田中さんのことで思い悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。


 田中さんは、私と交流するつもりがない。

 私にだって交流するつもりがないのだから、今までのように教室にいても気にしなければ首を絞められる前の生活が戻ってくる。田中さんと喋ることもなく、彼女のピアノを気にすることもない生活を送ることができる。


 私はぽんっと一回ベッドを叩いてから、立ち上がる。


「美空。そろそろ食堂行こうよ。今日、ロールキャベツみたいだし」 

「キャベツかー」

「ロール、ね」

「ロールしてあってもなー。お肉どーんっ! みないなのがいい。元気でそうなヤツ」

「ステーキ?」

「めちゃくちゃ食べたい」

「でも、寮の食事でステーキでたことないよね」

「ないね」


 落胆したように言うと、美空がベッドに寝転がり、「お肉」と呟きながら手足をばたつかせる。

 気持ちはわかるが、何度呟いてもロールキャベツがステーキになったりはしない。


「転がっててもご飯食べられないから。行くよ」


 私はゴロゴロしている美空の手を引っ張る。

 食堂の席は決まっていないが、田中さんはいつも同じような席に座っている。だから、早く食堂に行って彼女が座る場所から離れた席に座りたい。


「今日のメニュー、急にステーキにならないかな」


 諦めきれないというように美空が言う。


「ならないから」


 私は掴んだ手を引っ張って美空を立たせる。そして、二人で食堂へ向かった。

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