第7話

 足が重い。


 落ちかけた太陽が空も中庭も赤く染め、木々の緑さえも夕焼け色に染まっているように見える。個人レッスンがもっと上手くいっていたら、沈む太陽に美しさを感じることができたと思う。いや、個人レッスンが上手くいかなくても綺麗な夕陽に感動する心くらいある。


 せっかく晴れたのにな。


 でも、今日は暗く鬱々とした気分に浸れるじっとりとした梅雨の雨が恋しい。

 昨日のことを引きずりっぱなしで、今日は最低の一日だった。


 私は放課後の中庭を通って、練習棟へ向かう。


 何人かの寮生とすれ違い、先輩には頭を下げ、同級生とは挨拶を交わす。気分も足も重いまま、練習棟に辿り着いて中へ入る。

 階段を上って二階、廊下を歩き始めてすぐに足を止める。


 目的地は、ここから三番目の練習室だ。

 でも、そこへ行くには邪魔者が一人。


 はあ、と大きなため息をつくと、私に気がついた田中さんと目が合った。どうやら、ここから二番目、これから私が使う練習室の隣を彼女が使うらしい。


 早く中に入ればいいのに。


 そうと思うが、彼女が予約している練習室はまだ中に人がいるようで、ピアノの音が聞こえてくる。


 田中さんの前を通っていかなければならないというこの状況にちょっとむかつくが、どうせ彼女はなにがあっても顔色一つ変えないし、意識しても仕方がない。私は田中さんの前を堂々と通って練習室へ行けばいい。彼女が謝ってきたら、そのときは少しくらい話をしてあげてもいい。


 私はそれくらいの気分で廊下を静かに歩く。

 壁に寄りかかっている田中さんの前を足早に通り過ぎる。


 私が予約した練習室には人がいない。

 扉に手をかけると、隣の練習室から人が出てくる。入れ替わるように田中さんが練習室に入ろうとして、思わず私は声をかけた。


「私に一言くらいないの? 無言で中に入るの、おかしいでしょ」


 向こうから話しかけてきたら話してもいい。

 そう思っていたのに我慢ができない。

 関わらないほうがいいとわかっているのに、声をかけてしまった。


 昨日のことは腹立たしくはあるが、死んだりしなかったし、ピアノも弾けるのだから、絶対に忘れたほうがいいに決まっている。だが、涼しい顔をして私の存在を無視する彼女に苛立つ気持ちを抑えられない。こっちが無視するのはいいが、あっちが無視するのは絶対におかしい。


「なんで倉橋さんになにか言わなきゃいけないの」


 冷たく言って田中さんが練習室に入っていくから、私も一緒に中に入ると「勝手に入らないでほしいんだけど」とさらに冷たい声が飛んでくる。


「勝手に入るに決まってるでしょ」


 私が扉を閉めると、田中さんが表情を変えずに言う。


「出てって」

「なんで私が出てかなきゃいけないの」

「ここは私が予約した練習室だし、これから練習するから」

「だろうね。練習しないなら練習室を予約したりしないし」

「わかってるなら出てってよ」

「出ていくのはいいけど、私になにか言うべきじゃない?」

「倉橋さんに用事ないし」


 そう言うと、田中さんは私の存在を無視するように椅子に座り、ピアノの蓋を開けた。そして、鞄から楽譜を出して譜面台にセットする。


「私だってないよ」


 強く言うと、平坦な声が返ってくる。


「じゃあ、無言でいいじゃない」

「良くない。昨日、あれだけのことしておいて学校で人のこと無視するの、おかしいでしょ。少しは、昨日は悪かったな、みたいな顔しなよ。それが嫌ならせめて無表情はやめて愛想良くして」

「無視はしてない。用がないから声をかけないだけ。大体、学校で倉橋さんと話したことほとんどないし。それに、私が倉橋さんに愛想良くする必要性ってある?」


 田中さんは怒ってはない。

 呆れてもいないけれど、声が氷よりも冷たかった。


 梅雨の湿っぽい空気とは違って、彼女の声は乾いている。だから、余計に冷たくて感情がないように思える。田中唄乃という人間は、体の中に脳も内臓もなにもない器だけの人間のような気がしてくる。プログラムされた曲を弾くためだけに生きている。今は、そういう人間に見える。


 私にこの器があったら。

 もっと上手く使えるのに、と思う。


「必要性? あるに決まってるじゃん。昨日のことを少しは反省するべきだし、表情くらいは変えるべきでしょ」


 愛想が良くできないのなら、怒ればいいと思う。

 勝手に練習室に入ってきた私を怒って、追い出すくらいの気持ちがあれば、彼女のピアノから今とは違う音が聞こえてくるはずだ。


「それについてはお礼言ったはずだし、もうそれ以上のこと言うの、意味ないと思うけど」


 倉橋さん、ありがとう。私、帰るから。

 昨日、確かに彼女はそう言った。

 でも、お礼は求めていない。


「あのさ、大体、それがおかしいんだよ。私にするのって、お礼じゃなくて謝罪だと思うけど」

「申し訳ございませんでした」


 彼女の目は、私ではなくピアノに向いている。

 音を鳴らしたくて仕方がないというように指先が鍵盤に触れる。

 反省しているようには見えない。


「心がこもってない。面倒くさいから適当に切り上げようと思ってるよね?」

「心が込められたら、私、自動ちゃんなんて呼ばれたりしないと思わない?」


 正論ではある。

 言葉に気持ちが込められるのなら、ただ空間を隙間なく白く塗り潰すだけの音を鳴らしたりしない。


「わかったなら、出てって」


 田中さんが立ち上がって私の腕を掴む。


「ちょっと」

「倉橋さんと話してる時間勿体ないから」


 そう言うと、私を練習室の外へ引っ張り出す。


「待ってよ。今年初めて開催されるっていうコンクール、あんた出るって聞いたけどほんと?」


 扉が閉まる寸前、田中さんに声をかけると感情のない声が聞こえてくる。


「私がでない理由って?」


 静かに扉が閉まり、しばらくすると廊下に音が漏れ聞こえてくる。練習室は防音だけれど、完璧ではない。耳を澄ませば、延々と正しいだけの音符が床に落ちてくる。


 そっか。

 田中さんの実技試験の曲って、ショパンの『エチュード Op.オーパス10-1』だっけ。


 ショパンが作ったピアノのための練習曲は、「十二の練習曲 作品十」「十二の練習曲 作品二十五」「三つの新しい練習曲」の二十七曲ある。Op.10-1は「十二の練習曲 作品十」の一曲目で、私が弾くOp.10-8は八曲目にあたる。


 やなヤツだな、と思う。


 彼女が弾いているOp.10-1はショパンのエチュードの中でも難しい曲で、鍵盤の端から端、と言ったら大げさだが、そうではないかと感じるほど右手を動かす。二分程度の曲だけれど、簡単に弾けるものではない。でも、漏れ聞こえる音は正確だ。きっと右手は、滑らかに鍵盤の上を動き回っているに違いない。


 ただ、つまらない音だと思う。

 彼女の音はつまらないのに正しい。

 正しいのにつまらない。

 きっと、練習室の中で聞いても変わらない。


 私が田中さんだったら、激しく、でも、美しい水の流れを感じさせるような、そんな。


 ――妄想なんて意味ないか。

 

 今、私がするべきことは妄想ではなく練習だ。

 今の私にOp.10-1を弾く力はない。


「あー、もうっ。腹立つ。ほんと嫌なヤツ! 田中唄乃のばーかっ」

 

 私は練習室の扉を手のひらで思いっきり叩く。


 バンッ。


「いったっ」


 八つ当たりされた扉はびくともしないが、手のひらはビリビリしびれる。骨にも振動が伝わって馬鹿は私だと思うけれど、拳で殴らなかったことは褒めたい。でも、あまりの痛みに叩いたことは後悔した。

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