調子が悪いし、あいつが悪い

第6話

 レッスン室に響く音が重い。

 指が動いていない。


 もっとテンポ良く。

 階段を駆け上がるように指を動かしたいと思うけれど、体育でマラソンをさせられているときの足みたいに指がもつれる。よたよたもたもた動く指が奏でるのは理想とはほど遠い曲で、ショパンに土下座したくなってくる。


 降り注ぐ光の中、指がかけっこしているような軽快な曲。


 実技試験の曲であるショパンの『エチュード Op.オーパス10-8』は、そんな明るいイメージの曲だ。長雨が続く梅雨を忘れて、ピアノから流れ出る音を追いかけたくなる。先週はそんな気持ちで弾いていたし、今もそんな気持ちで弾くべきだと思う。少なくともショパンに土下座しながら弾く曲ではない。


 ピアノを弾く前の気持ちに引きずられちゃいけない。


 わかっているけれど、上手くいかない。いつもならこの曲を弾いていると飛んで跳ねたい気持ちになるのに、今日は飛ぶどころか地面を這いずり回っている気持ちになる。


 田中さんが実技試験で弾く曲、なんだっけ。


 日の光とはほど遠い音を鳴らしながら、余計なことを考える。


 実技試験の曲は人によって違う。

 実力や持っている音、個性。

 いくつもの要素を組み合わせ、選ばれる。


 前期の実技試験は、バッハの平均律へいきんりつから一曲、モシュコフスキかショパンの練習曲から一曲。


 私は『平均律クラヴィーア曲集 第一巻 第十七番 前奏曲とフーガ』とショパンの『エチュード Op.10-8』を弾く。エチュードは練習曲のことで、私が弾くOp.10-8はショパンの練習曲の中の一曲になる。


 田中さんが弾く曲は確か――。


「ストップ」


 思考が完全にピアノから離れたところで、前川先生の声が聞こえて手を止める。


「もう一回最初から」


 柔らかいけれど、はっきりとした声が響く。


 わかっている。

 今のは良くなかった。


 先週のレッスンで言われたことができていないどころか、意識から離れたところで手だけが動いていた。私の気持ちは田中さんに向かっていて、曲に向かっていなかった。


 練習曲と言うと簡単そうに聞こえるけれど、ショパンのエチュードはそれほど簡単に弾けるものではない。別のことを考えながら弾けるようなものではないし、弾くべきものでもない。三分ほどの短い曲だけれど、集中して弾かなければ実技試験に間に合わない。


 一度楽譜を見て、静かに鍵盤に指を置く。

 息を吸って、指が一瞬鍵盤から離れる。

 息を吐くと同時に弾き始める。

 でも、すぐに先生の声が聞こえてくる。


「気持ちを込めるのはいいけど、込めるのは今の乱れた倉橋の気持ちじゃないからね」


 動かし始めたばかりの指が止まる。


 バレてる。


 私はうつむきたくなる気持ちを抑えて、顔を上げた。


「なにかあった?」


 前川先生が私の後ろに立ち、肩にそっと手を置く。


 あった。

 なにかどころではない大きなことがあった。

 曲に集中できないのは、そのせいだ。


 でも、田中さんからされたことを前川先生に言ってもどうしようもない。私は田中さんを罰してほしいわけではないし、前川先生に助けてほしいわけでもない。ただひたすら彼女の態度が気に入らないだけだ。そして、今は自分の才能のなさに落ち込みつつある。田中さんなら、どんなことがあっても何事もなかったかのように正確に淡々とピアノを弾くはずだ。


「なにもないです」


 私はいつもよりも小さな声で答える。


「なにもない音でこれなら、レッスン最初からやり直しかな」


 返す言葉がない。

 私は、ぴよちゃん、と言いかけて「前川先生」と言い直す。


 前川日寄子先生は、彼女からレッスンを受けている生徒――門下生に『ぴよちゃん先生』と呼ばれていて、普段ならぴよちゃん先生と呼んでも怒らないけれど、レッスン室では別だ。ここでは、前川先生と呼ばなければ怒られる。


「あの、た――」


 田中さん、と言いかけてやめる。

 田中さんのピアノをどう思いますか、なんて聞いたら、前川先生は絶対に怒る。そして、そんなことは聞くものではないと自分でもわかっている。


 人のピアノがどうかは関係がない。

 私がどう弾くかが問題なのであって、個人レッスンの場で他人を気にしても仕方がない。


「聞きたいことがあるなら、言ってごらん」


 前川先生が私の肩をぽんと叩く。

 振り向くと、先生がにっこりと笑った。

 でも、目は笑っていない。


 口角だけが不自然に上がっているだけだ。

 先生は優しいけれど、一度しかけた質問を飲み込むことを許さない。言いかけてやめたなら、代わりの質問を用意しなければならない。


「私ってどうですか?」


 代打として選んだ質問は、ずっと聞きたかったことでもあった。


「どう、とは?」

「もっと上手くなりそうですか」


 無駄な質問だと思う。

 愚問だ。

 それでも気になっている。

 田中さんのような才能がなくても、今よりももっと上手くなれるのか知りたい。


「自分ではどう思う?」


 厳しくはないけれど、優しくもない声が聞こえてくる。


「……よく間違えるし、曲よりも自分の気持ちを優先したり、音が乱れたり、今は上手くないと思います。それに――」


 それに、それに、それに。

 言葉が続かない。


「それに自分に自信がない?」


 そう言うと、前川先生がにこりと笑う。

 私は頷くしかない。


「自分のことを分析できて、なにが駄目かわかってる。考える頭もいい耳も持ってるじゃない」


 前川先生が明るい声で言うが、私の気持ちは明るくならない。耳と頭だけではどうにもならないと思う。


 この手が、この指が、もっと、もっと、動けばいいのに。


 私が頭に描く通りに指が動けば、心が感じたままの音を鳴らすことができる。


「そんな嬉しくなさそうな顔しないの」


 前川先生の言葉にうつむく。

 今の私は、先生が見てわかるほど不満そうな顔をしているらしい。


「嬉しくないことはないです」


 取り繕うように言うと、優しい声が聞こえてくる。


「今のは倉橋のことを褒めたんだよ? 自分を客観的に見られない子は伸びないからね」


 前川先生が気合いを入れるように私の肩をぽんっと軽く叩くと、言葉を続けた。


「今の倉橋に必要なものは練習。もっと上手くなりたければ、休まずに練習を続けるしかない。そして、それが自信になる。――なんてことは、倉橋もわかってるでしょ」

「はい」

「じゃあ、集中して。校内コンサートの出演者は、実技試験の結果で選ばれるからね。しっかりやっていこう」


 校内コンサートに出演するには、先生が言う通り、七月にある実技試験で良い結果を残さなければならない。


 一年生から選ばれるのは一人。


 たった一人に選ばれる自信はないし、選ばれるとしたら田中さんに決まっている。

 先生に言うべきことではないと思うから口には出さないが、そんな可能性がほとんどないものを目指しても仕方がない。


「あ、それともう一つ。コンクールに出る気はある? 今年初めて開催される小さいコンクールなんだけどね」


 コンクールという言葉に心臓が縮む。

 首を絞められたときみたいに息が苦しくなって、私は鍵盤にそっと触れてから言葉を喉から押し出した。


「――いつなんですか?」

「予選が八月で本選が九月。予選は実技試験の曲でいけるから」


 練習をする時間がないから。

 という逃げ道はない。


 七月に実技試験があるから、予選に向けて新しい曲を練習するなら時間がないという言い訳もできたけれど、そういうわけにはいかないようでため息がでそうになる。


「それは出なきゃ駄目なんですか?」


 喉につっかえている言葉を引っ張り出して、尋ねる。


「駄目ってことはないけど、うちの学校の先生も協力してるから、何人か生徒に出てもらおうと思ってね」

「……他に誰がでるんですか?」

「今のところ決まってるのは田中かな。倉橋はどうする?」


 ピアノは好きだ。

 でも、コンクールは苦手だ。

 田中さんと一緒に、なんて冗談じゃない。


「出るつもりないです」

「でます、の即答がほしいところなんだけどな」


 この学校の音楽科はそれなりに有名で、大抵のコンクールなら予選落ちなんてことはないと思われている。


 通って当然。


 私にとってそれはプレッシャーにしかならない。


 そもそも私はコンクールで良い成績を収めることを目的にピアノを弾いているわけではないし、人前でピアノを弾くこと自体があまり好きではない。上手くはなりたいが、それはコンクールに出るためではない。


「コンクールに出ることは倉橋にとって良い経験になると思うよ。だから、もう一度よく考えて。申込みの締切はまだ先だから」


 先生が柔らかな声で言う。


「……はい」


 気が重い。

 表情を変えずに首を絞める度胸がある田中さんのようになれたら、コンクールに喜んででられるのかもしれないと思う。


「じゃあ、倉橋。さっきのところからもう一度」

「はい」


 息を吸って吐く。

 田中さんの表情のない顔が頭に浮かんで、目をぎゅっと閉じる。


 彼女がコンクールに出ても出なくても関係ない。


 私は目をゆっくりと開いて、鍵盤に指を置いた。

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