第5話
「あ、それ、私も気になってた。今日、田中さんのことずっと見てたよね? なんかあったの?」
瑠璃ちゃんが私を見る。
「昨日、話しかけられただけ」
「えー、田中さんに話しかけられるってレアじゃない? なんだったの?」
「日直変わってって言われただけ。変わってほしい理由までは聞いてないからわかんない」
昨日、美空に言ったことと同じことを口にする。
人に話しかけただけでレア扱いされる田中さんに首を絞められたと言ったら、瑠璃ちゃんも美空も驚きすぎて心臓が止まるかもしれない。昨日の出来事はそれくらい珍しいことだったが、本人がいつもとまったく変わらないから昨日あったことが幻のような気がしてくる。
「美空。恋する乙女設定出すなら、相手をもっといい人にしてよ」
彼女の言葉が本気ではないことはわかっているが、冗談であっても田中さんに恋しているなんて言われたくない。
「ふむ。じゃあ、好きな人を選ばせてあげよう」
美空が向かってくる人を避けながら、もったいぶった口調で言って私を見る。
「音楽科、選ぶほど人いないよね」
私は美空のありがたい提案をやんわりと却下する。
女子高とまではいかないが、音楽科の生徒は女子が多く、男子は数えるほどしかいない。選ぶにしても選択範囲が狭すぎると思う。
「音瀬、そこは普通科も入れようよ」
「私、ピアノが恋人でいいから」
「それ、みんな言うし、禁句。恋人はせめて生きてるものにしようよ」
神妙な顔で言った瑠璃ちゃんからぐうぅっと低い音が聞こえてくる。
「お腹鳴ってるけど、大丈夫?」
彼女のお腹を見ながら尋ねると、瑠璃ちゃんがくるりんとはねた毛先を引っ張りながら言った。
「大丈夫じゃない。寝坊して、朝ご飯食べ損ねたからまた鳴りそう」
遅刻魔らしい台詞を口にして、瑠璃ちゃんがため息をつく。
彼女の家は学校から近い場所にあって、自宅から学校に通っている。全力で走れば五分で学校に着くという余裕がそうさせるのか、遅刻が多い。今日も担任の先生とほぼ同時に教室に入ってきたから、二度寝でもしたのだろうと思う。
「これからソルフェなのに、やだなー」
髪を指に巻き付け、瑠璃ちゃんがこの世の終わりみたいな顔をする。
気持ちはわかる。
普通科にはない授業、ソルフェージュ。
生徒にソルフェと呼ばれるこの授業では、音を正しい高さとリズムで歌ったり、聞き取った音を書き取るなどしながら音楽の基礎的な力を養う。今日は先生が鳴らすピアノの音を聞き、
「瑠璃ちゃんのお腹が鳴らないようにお祈りしとく」
みんなが耳を澄まして受ける聴音の授業でお腹が鳴ると、情けない音がいつもの三倍くらいの大きさで聞こえるから目立つ。集中力が途切れる原因にもなるから、私は神社でするみたいに瑠璃ちゃんに手を合わせる。
でも、合わせた手に効果はなかった。
ソルフェージュの授業が始まって十分も経たないうちに、瑠璃ちゃんのお腹の虫が派手に音を鳴らす。
ぐうぅぅぅ。
先生のピアノと五線紙にペンを走らせる音以外なかった教室の空気が揺れている。誰も喋ってはいないけれど、周りのみんなが笑いをこらえていることがわかる。
ちらりと、田中さんを見る。
教室の空気が明らかに緩んだのに、彼女の表情は変わっていない。お腹の音が聞こえなかったはずはないが、先生のピアノの音以外は聞こえていないように見える。
真面目だなと思う。
でも、つまらなそうに見える。
私には、田中さんがつまらなそうな顔をしている理由がわからない。
聴音の授業は楽しい。
個人の先生についているときからやっているもので目新しいものではないけれど、飛び回っている音を捕まえて書き取った五線紙に間違いがなかったら気持ちが良いし、数式と格闘しているよりも面白い。田中さんのようにつまらなそうに受ける授業ではない。
やっぱり田中さんとは相容れないと思う。
私と彼女は繋がる部分がないのだから、頭の中から追い出してしまうべきだ。わかっているが、田中さんのことが気になって授業に身が入らない。記憶から昨日のことを消し去っているとしか思えない田中さんを見ていると、苛つく。
教室に音が響いて、その音は私の頭の中にも響いているのに、ぼやけている。聞こえてくる音が雑音でしかない。
私はこんなにも田中さんのことを気にしているのに、彼女は変わらない。私を気にかけている様子がない。
午後は、週に一度の個人レッスンがある。
気持ちが乗らない。
来月、実技試験があるのに。
私は小さく息を吐く。
せっかくのレッスンなのに、空気が抜けた風船みたいにやる気がしぼんでいて、机に突っ伏したくなる。
教室には、捕まえられないピアノの音が響いている。
音は雑音のままで、私から逃げていく。
ドレミ、ドレミ、大丈夫。
演奏前にするおまじないを心の中で唱えてみる。
でも、今日はできるような気持ちにはならかった。
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