第4話
寮から学校まで最短五分。
でも、朝はそうはいかない。
寮は学校の敷地内にあるから、中庭を突っ切って行けばすぐに学校に着くが、朝は誰も中庭を通らない。
禁止されている行為だから、と言うのは建前で、朝は中庭を見張っている先生がいるからわざわざ注意されるようなことをする生徒がいないだけだ。九十五パーセントくらいの確率で見つかって怒られることになるから、朝の寮生はみんな大人しく遠回りをしている。
昨日の雨空が嘘のような青い空の下、私と美空も他の寮生と同じように寮専用の門から一度外へ出て正門から学校へ入る。
ざわつく廊下を歩いて教室へ行くと、記憶は正しく、黒板に日直として田中唄乃ともう一人の名前が書いてある。
いつも余裕を持ちすぎない時間に寮を出るから、学校に着くとすぐに一時間目の授業が始まって、日直の仕事を果たすべく田中さんが号令をかける。
起立、礼、着席。
昨日、隣から聞こえてきた号令が今日は斜め後ろから聞こえて、椅子を引くガタガタという音が鼓膜を震わせる。
私の席の斜め後ろ。
窓際に座っている田中さんを見ると、視線が合う。でも、目が合っても眉一つ動かさない。昨日、私の首を絞めた人間とは思えない。
にっこり笑ってほしいわけではないし、笑顔を向けられても気持ちが悪いだけだけれど、表情がまったく変わらないというのも腹立たしい。しかも、視線はすぐに外されてしまう。昨日のことを考えると申し訳なさそうな顔をしたって罰は当たらないと思うが、私を見ていた目は当然のように教科書に向けられている。
感じが悪い。
彼女の前世はこけしだったに違いない。
あまりに表情が動かないからそんなことを考える。
本人に一言言ってやりたいけれど、先生に怒られないように私も前を向いて教科書に視線を落とす。
数字を書いて、消して。
こっそり田中さんを見て。
そんなことをしているとやけに長く感じる数学の授業が終わって、休み時間がやってくる。
教室が一気に騒がしくなって、友だちとくだらない話をしながら田中さんを見る。
彼女は入学してからずっと、楽譜を見ながら休み時間を過ごしている。顔は、生まれたときから表情筋がないと言われたら信じてしまうような真顔だ。
はっきり言って、どうかしている。
いくら音楽科の生徒でも、楽譜を見ることに毎日の休み時間を捧げたりしない。
変人。
そうとしか言いようがない。
国語の授業が始まる三分前。
田中さんの机の上のものが楽譜から教科書に変わる。でも、表情はマネキンみたいに変わらない。
彼女を見ていると、才能があっても人生がつまらなそうだなあと思う。
――田中さんを観察している私もつまらない人間だけどさ。
みんなが席について、先生が教室に入ってきて授業が始まる。
はあ、とため息をついて、窓の外を見る。
青い空に浮かぶ雲の向こうとこっち。
私と田中さんにはそれくらいの距離があって、才能がある側の人のことなんて気にしても仕方がないから、あっちとこっちで切り分けて考えていたのに、雲の向こう側からこっち側に来たりするから気になる。
すごく、めちゃくちゃ、気になる。
あまりにも気になって昨日から、今までほとんど考えたことのなかった彼女のことばかりずっと考えている。
消しゴムでもぶつけてやろうか。
そんな不穏なことを考えていると、先生から「倉橋さん」と呼ばれて背筋が伸びる。よそ見をするな、と注意をされて、田中さんがしなければならないような申し訳なさそうな顔を私がすることになる。
授業が終わると、机の上のものが教科書から楽譜へと入れ替わることなく、朝から号令以外の言葉を発していない田中さんが立ち上がり、教室を出て行く。
「音瀬ちゃん、行かないの?」
「あ、行く」
私は慌てて準備をして立ち上がり、瑠璃ちゃんと美空と一緒に教室を出る。私たちよりも先に教室をでた田中さんは、背中すら見えない。
「音瀬。今日、恋する乙女みたいになってたけど、大丈夫?」
一番右を歩いている美空が向かい側からやってくる人を避けながら、楽しそうに私を見る。
廊下は右側通行と決まっているけれど、線が引いてあるわけではないから、真ん中は人が混じり合っている。
「は? 誰がなんだって?」
美空に尋ねると即答される。
「音瀬が恋する乙女」
「心当たりないんだけど。誰に恋してるのか、私のほうが知りたい」
不機嫌に足を踏み出すと、キュッと上履きが音を鳴らす。
「そんなの、決まってるじゃん」
美空はそう言うと、声のトーンを落として「ミスパーフェクト」と付け加え、「今日、ガン見してた」と笑った。
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