第3話

 スカートを翻してガンガン歩く。

 傘から落ちた滴が肩を濡らし、勢いよく下ろした足に雨水が跳ねて靴を汚す。靴下も汚れたような気がするけれど気にしない。


 中庭を突っ切って五分。


 オレンジ色の寮が見えてきて、田中むかつく、と呟く。

 首を撫でて息を細く長く吐いて、もう一度、田中むかつく、と呟いて足を止める。


 正しくピアノを弾く田中唄乃は、間違っている。


 楽譜を正確にトレースして正しく再現できる力があるのに使いこなしていない。わけのわからない理由で首を絞めたところで、演奏に気持ちがこもるわけがない。


 誰かが田中さんのピアノについて言った『表情のない音』という言葉を思い出す。クラスメイトの多くはその言葉に賛同していたけれど、私は違うものを思い浮かべた。


 なにもない白。


 人が弾く限り、完全に感情がない曲にはならない。田中さんのピアノもそうだ。何らかの感情はある。でも、それよりも正確さが際立っている。


 彼女のピアノから飛び出した音は感情を塗り潰し、黒鍵もあるはずなのに、白鍵だけの世界になったような均一な世界を作り出す。その向こうに白以外の色もあるのかもしれないけれど、白すぎてなにも見えないつまらない世界になっている。


 ただ、正確に隙間なく世界を塗り潰していくテクニックに驚嘆する。


 そういう彼女が羨ましくはある。

 彼女は私にはないものを持っている。


 私が田中さんくらい弾けたら、もっとできることがあって、もっと、もっと――。 


 私は、はあ、とため息をつく。

 考えても無駄だ。

 私は私で、田中さんにはなれない。


 本当に頭にくる。

 止めていた足を踏み出す。


 ばしゃりと雨水が跳ねて、寮へ向かってダッシュする。ぴちゃぴちゃ、べちゃべちゃと雨が足を濡らし、肩を濡らす。傘が役に立たない。冷たい雨に震えながら寮の扉に辿り着き、自分の部屋に戻る。


「おかえりー。どしたの、今日。遅かったじゃん」


 扉を開けると、同室でクラスメイトの早野美空はやのみそらの明るい声が響く。机に向かっていた彼女は、私がびちゃびちゃであることは気にならないらしくにこにことこちらを見ている。


「田中さんに話があるって言われてさ」


 鞄を床へ置きながら、遅くなることになった元凶の名前を口にすると、美空が好奇心を隠さない声で「田中って、自動ちゃん?」と聞いてくる。私は「そうだよ」と返して、クローゼットからパーカーとデニムを引っ張り出して濡れた制服を脱ぐ。


 寮は基本的に二人部屋で同級生と同室になるから、あまり気を遣わなくてすむ。


「自動ちゃんがなんで音瀬おとせに話? あの人、普段ほとんど喋んないじゃん」


 私や田中さんと同じくピアノを専攻している美空が不思議そうな声を出す。確かに美空が言う通り、田中さんは無口だ。学校でも寮でも必要なこと以外はほとんど喋らない。それを思うと、今日の彼女はよく喋ったと言える。


「誰にでも用事くらいあるでしょ」


 田中さんに話があると言われたことも、用事があると言われたことも事実だ。そして、私も美空と同じように「自動ちゃんが私になんの用?」と不思議に思ったことも事実で、だからこそ彼女の用事が気になって教室に残った。その用事が首を絞めることだと知っていたら、用事なんて蹴り飛ばして寮に帰っていたけれど。


「そりゃ、誰でも用事くらいあるだろうけど、自動ちゃんは音瀬に、っていうか、誰にも用事がなさそうじゃん?」

「まあねえ」


 私は美空になんと答えるべきか考えながら、濡れた制服をハンガーに掛けて用意した服に着替える。


「で、用事ってなんだったの?」


 予想していた質問が飛んできて、当たり障りのない言葉を探しながら口を動かす。


「たいしたことじゃなくて。明日の日直をさ、変わってって言われて」

「自動ちゃんって、明日日直だっけ?」

「日直だって。断ったけど」


 机の並び順、前から二人ずつ日直が回ってくるから、順番からすると明日の日直は田中さんで間違いないはずだ。


 嘘をつくのはあまり好きではないけれど、首を絞められていたなんて本当のことを言うわけにはいかない。田中さんのことをかばうつもりはないが、美空の好奇心を刺激して面倒なことになるのも御免だ。


「へえ。あの人でもそんなこと言うんだ。でも、音瀬って自動ちゃんに日直変わってって言われるほど親しくないよね? なんでわざわざ音瀬に頼んだんだろ?」

「そんなの本人に聞いてよ」

「じゃあ、自動ちゃんが日直したくない理由ってなんだったの? そっちの方が気になる」

「聞かなかったし、わかんない。練習したいんじゃないの。そんなことより今日さ、練習室いつものところ取れなかったからテンション下がる。僻地だよ、僻地」

「そりゃ、残念だね」


 小さな防音の部屋にアップライトのピアノが置いてある練習室は、練習棟と呼ばれる場所にある。予約をすれば使うことができるが、お気に入りの部屋を予約できるとは限らない。今日、私が夕食後に使うことになっている練習室は、練習棟の端の端にある『僻地』と呼ばれている場所で、寮生に一番人気がない。


「心がこもってない。あー、バッハとショパンを地獄に落としたい」


 私は今、練習している曲を作った作曲家を呪う。


「バッハとショパンに八つ当たりしても練習室は変わらないし、もう死んでる人を地獄に落とすの無理じゃない?」

「そんな答えは求めてなかった」

「現実は厳しいのだよ」

「はああああ。今日、ついてないな」


 タオルを出して濡れた髪を拭く。でも、体はなかなか温まらない。こういうとき、伸ばしかけの髪の毛が邪魔になる。ショートボブの美空のように髪を切りたくなってくる。


 今日は本当についていない。


 壁際に置かれたベッドに体を投げ出すと、ぽすん、と布団が沈んだ。


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