第2話

 私の手も田中さんの手も、ピアノを弾くためにある。


 首を絞めるためのものではないし、首を絞めている相手の手の甲を攻撃するためものでもない。ピアノを弾く手を使って首を絞めるくらいなら、制服のネクタイを使って絞めるべきだ。


 首から剥がれることのない手が与えてくる苦しさを紛らわせたくて意味のないことを考えていると、田中さんの声が聞こえてくる。


「本当に倉橋さんのこと、羨ましいと思ってる」

「うそ、はいい……から」


 今は天秤が死よりも生に傾いているけれど、好ましい状況ではない。

 早く、早く、手を離してほしいと思う。


 私は田中さんの手の甲をひっかいて、足を蹴る。でも、彼女は手を離してくれない。それどころか、人の首を絞めている人間とは思えないほど淡々と言った。


「――さすがにこの設定は無理があったか」


 え?


 声が口から出る前に、首を絞めていた手が唐突に離される。

 窓ガラスに体を押しつけていた力がなくなり、ぐらり、と視界が揺れる。同時に圧迫されていた喉が解放されて体の中に一気に酸素が入り込み、げほげほと咳が出る。


「倉橋さん、ありがとう。私、帰るから」


 反省の色がない冷たい声が聞こえてくる。


「は?」

「じゃあね」

「ちょっと、ちょっと、ちょっとっ! 待ってよっ」


 私はふらつきながら、田中さんの腕を掴む。


「なにか用?」


 息を吸って吐いて、呼吸を整える。

 腕を掴んだ手に力を入れる。


「――なにか用って。用があるに決まってるでしょ。私にこんなことしておいて、なにもなかったみたいに帰るってどういうこと? 意味わかんないんだけど。あんた、なんのために私の首を絞めたわけ?」


 彼女のことは「田中さん」としか呼んだことがなかったけれど、「田中さん」なんて呼ぶのは勿体ない。人の首を絞めておいて何事もなかったかのように帰ろうとする人間の名字なんて口に出す価値もない。あんた、でいい。


「倉橋さんの首を絞めたかっただけ」

「それだけ?」

「それだけ。じゃあ、帰るから」

「いやいやいや、あり得ないでしょ。人の首絞めておいて、帰るからって、なにそれ。私、なんで首絞められたわけ? 首絞めたかっただけなんて言葉で納得するわけないじゃん」

「理由なら、才能を妬んでるって言ったと思うけど」


 田中さんが絵画のように表情を変えずに言って、面倒くさそうに長い髪をかき上げた。日本人形をイメージさせるつやつやとした黒い髪は彼女によく似合っているし、髪をかき上げる姿も様になっているが、今はその容姿も仕草も私を苛立たせるものにしかならない。


「言った。言ったけど、この設定は無理があったって失礼なことも言った」


 腕を掴んだ手に思いっきり力を込めると、田中さんが鬱陶しそうに私の手を振り払った。


「大げさなんだよ、ちょっと首絞めたくらいで」


 どこまでも冷たい声で言って、表情のない顔で私を見る。


「はあ? ちょっとってなに、ちょっとって」

「本気で殺そうと思ったわけじゃないし、もういいじゃん」

「よくない、いいわけがないっ。なんで私?」

「体力テストの結果、底辺だったから」

「確かに底辺だったし、運動神経死んでるけど……」


 音楽科では、音楽だけをやっているなんてことはない。数学や英語から逃れることはできないし、体育からだって逃れられない。それは、小学校から散々な結果にしかならなかった体力テストからも逃れられないことを意味している。そして、春の終わりに行われたそれの結果は、高校生になっても当然の如く悪かった。


「それにしたって、その言いかた失礼じゃない? もしかして、自分より結果が悪い人間だったら抵抗されても大丈夫とか、そういう感じで選ばれたの? 私」


 薄暗い教室に私の尖った声が響く。

 でも、その声が田中さんに刺さることはない。


「そういうことになるね」


 彼女は、顔色も声色も変えない。

 首を絞めているときからずっとなにも変わらない。

 田中さんは人間として大切ななにかをどこかに落として、拾い忘れたまま生きてきたように見える。


「じゃあ、帰るから」


 なにも解決していないのに田中さんがすべてが丸く収まったように言って背を向けようとするから、私はまた彼女の腕を掴んだ。


「ちょっと、帰ろうとしないでよ」


 掴んだ腕を引っ張ると、単調な声が返ってくる。


「まだなんかあるの?」

「あるに決まってるじゃん。なんで私の首を絞めようと思ったのか教えてよ。才能がどうとかっていう一瞬でわかる嘘じゃなくて、ちゃんとした理由言って。酷い目にあったんだから、それくらいの権利あると思うけど」


 一気に喋って、息をつく。

 そして、催促するように掴んだ腕を引っ張ると、田中さんが床を蹴った。


「私がみんなからなんて呼ばれてるか知ってるよね」


 氷よりも冷たい声で言う。


「なに、突然」

「答えて。知ってるでしょ」

「知ってるけど」

「じゃあ、それ言って」

「……ミスパーフェクト」


 私はありきたりで、でも、田中さんのピアノをよく表しているニックネームを口にした。


 彼女のピアノはどこまでも正しい。

 どんなに難しい曲であっても間違えることはない。

 指は鍵盤の上を魔法のように動き、正確な音を響かせる。


 田中さんは簡単に言ってしまえば“天才”と呼ばれる部類の人間で、コンクールで凄い女の子がいると有名だったから、私も彼女の名前は知っていた。もちろん、校内でも有名だ。そんな彼女にミスパーフェクトという言葉はぴったりだと思う。


「違う。もう一つのほう」


 感情が欠けた声で田中さんが言い、私はやっぱりと視線を落とす。


 もう一つのニックネームはできれば言いたくない。


 どちらかと言えば陰口に相当するそれは、本人の前で口にするものではない。でも、田中さんは黙っていることを許してはくれなかった。


「倉橋さん」


 急かすように名前を呼ばれて、私は良い意味を持たない言葉を告げることになる。


「……自動ピアノ」


 ひとりでに鍵盤やペダルが動いて音楽を奏でるピアノのことを指す言葉。


 それが彼女のもう一つのニックネームで、クラスメイトの間では、ミスパーフェクトと呼ばれるよりも自動ピアノの“自動”の部分を使って『自動ちゃん』と呼ばれることが多い。もちろん、本人がいないときに限るけれど。


「それが理由」


 氷よりも冷たかった声がほんの少し溶けて、床へ滴り落ちる。それは珍しく感情が滲んだ声で、彼女の足元に落ちない染みを作ったように思えた。


「まったくわかんないんだけど」


 誰だったか忘れたけれど、田中さんのピアノを表情のない音が規則正しくただひたすら歩き続けているような音だと言ったことがあった。


 込められるべき感情が欠落した音楽。

 機械が奏でたような音。


 それが素晴らしい技術を持つ田中さんのニックネームが“自動ピアノ”である理由だ。でも、このあだ名が私の首を絞める理由だと言われても理解できない。自動ピアノは私がつけたあだ名ではないし、彼女の演奏に感情が欠けていることも私には関係のないことだ。


「誰かを妬むような感情の一つでもあれば、もう少し気持ちのこもった演奏ができるかと思って」


 田中さんがまた氷のような声を出す。


「……私、そんなことで首絞められたの?」


 視線を床から田中さんの顔へと移す。

 目に映る彼女の表情は、私の首を絞めていたときと変わらない。


「そうだけど。でも、ちょっと後悔してるかな。倉橋さんの才能に嫉妬するっていう設定は無理があったし、簡単に逃げられてもいいからもう少し才能がある人の首を絞めるべきだった」

「あんた、ほんっとに失礼なんだけど。大体さ、人の首絞めるより、笑えばいいじゃん。馬鹿なあんたに教えてあげるけど、人って表情に感情が引っ張られるんだって。笑顔を作れば、表情に引っ張られて楽しい気分になるの。だから、無理矢理にでも泣けば悲しい気分になるだろうし、苦しい顔を作れば苦しい気分になるんじゃないの? 実験したいなら、自分の顔で実験しなよ」

「もうやった」

「……やったの?」

「やったけど、笑っても楽しくなかったし、泣くのは無理だった。っていうか、それくらいで演奏に感情がこもるなら、プロも大笑いしながら弾いたり、激怒しながら弾いてるんじゃないの」

「そういうことは言ってない」

「そういうことだよ」


 田中さんが素っ気なく言って、小さく息を吐く。そして、私を見ずに言葉を続けた。


「じゃあ、私、帰るから。倉橋さんも早く帰らないと、門限に間に合わないよ」


 教室の時計を見ると、確かに寮の門限が近い。

 私も田中さんも寮生で、門限に遅れると一週間のトイレ掃除が待っている。


 田中さんが机の上に置きっぱなしになっていた鞄を取って、教室から出て行く。後を追いたくはないが、門限に遅れるわけにいかないから私も鞄を持って教室を出る。廊下へ出るとすぐに田中さんの背中が見えて、私は彼女を追い抜いて下駄箱へ向かう。


 私たちは相容れない。

 これからずっと。

 相容れることはない。

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