学年一××が上手い女の子が首を絞めてくる

羽田宇佐

死にかけのプレリュード

第1話

 やたら整った顔が目の前にある。

 でも、蟻の頭ほども嬉しくない。


 それは私が今、ただの高校生からただの死体になりかけているからだ。


 感情のない顔をした田中唄乃たなかうたのの手によって。


 いや、なに、なんで。

 どうして私がクラスメイトに首を絞められているわけ?


 今すぐ死ぬ勢いで絞められているわけじゃないけれど、この状態はおかしい。


 高校に入学して三ヶ月。

 死体になるには早すぎる。


 品行方正と言うほど清く正しくは生きていないけれど、人の道を外れるようなことはしていないし、殺されるような悪いことだってしていない。大体、田中さんに首を絞められるようなことをした覚えがない。断じてない。


 そもそもクラスメイトというだけで、ほとんど関わりがないのだから、壁ドン、――正確には窓ドンからの首絞めなんてあり得ないはずだ。


 それなのに、私は、何故か、放課後の教室で田中さんに首を絞められている。

 理解を超えた事態だと思う。


「なん、な……の?」


 首に張りついた指の下、喉から押し出すように出した声は掠れていて、いつもの半分くらいの大きさにしかならない。伸ばし始めた髪を彼女の手が巻き込んでいるせいで、息苦しいだけではなく痛い。


「言わないとわからない?」


 放課後の教室、聞こえてくる声は窓を濡らす雨よりも冷たく、私の体を冷やす。でも、首を絞めている田中さんの手が熱いせいで、冷たいと熱いが混じり合って死なない程度に息苦しさが増す。


「わ、からない」


 ガサガサした声が雨の音に消える。

 ほとんど交流がないクラスメイトに首を絞められる理由なんてわかるわけがないし、わかってたまるかと思う。きっと、何十時間説明されても理解できない。


「本当に?」


 田中さんが眉一つ動かさずに言う。

 返事をせずにいると、首に巻きついてる手に力が入る。


 冷たい窓ガラスに背中が押しつけられ、肺に入る酸素の量が減る。まだ死にそうにはないけれど、田中さんがさらに力を入れたらどうなるかわからないし、窓と一体化しそうな背中が冷たくて痛い。合服のベストとブラウスは、体を覆っているだけでなにも緩和してくれない。


 私は首に磁石のようにくっついて離れない田中さんの手に指をかけ、ありったけの力を込める。それでも彼女の手が剥がれることはなく、首が絞められ続ける。


「たなか、さん」


 理解できないと思っていても首を絞められている理由が知りたくて、彼女の名前を呼んで手の甲に爪を立てると、首を絞める力がほんの少し緩んだ。

 空気が細く肺に流れ込んで、死体という未来から高校生という未来に近づく。


倉橋くらはしさんの才能を妬んでる」


 静かな声が聞こえてきて、怖い、と思う。

 それは、クラスメイトの首を絞めるという人の道に外れた行動をしている彼女から、感情というものが欠片も感じられないからだ。


「う、そでしょ」

「本当」

「は、はっ」


 田中さんの冗談が下手すぎて、上手く笑えない。


 私と田中さんは高校生だけれど、普通の高校生とは少し違ってピアノを学ぶためにこの学校の音楽科にいる。


 下手な冗談を言うためではないし、聴くためでもない。

 ましてや人の首を絞めたり、絞められたりするために入学したわけではない。変人としか言いようのない人間はいるけれど、ほとんどは私のようにまともな人間で、大人しく音楽を学んでいる。


 そして。

 田中唄乃は私たち一年生の中で一番ピアノが上手い。

 音楽科全学年で見てもトップクラスの技術を持っている。


 だから、まつげが長くて、唇は少し薄いけれどピンク色で、鼻の高さは普通だけれど、和風美人という趣のある田中さんは、私の才能を妬むような人ではない。もっと言えば、私には彼女が妬むような才能がない。


 そんな彼女が本気で私を妬んでいると言っているなら、梅雨の湿気で頭にカビが生えているとしか思えない。


 私は田中さんとは違ってその辺に転がっているただの生徒で、三年間、辛いこともあるだろうけれど、それなりに楽しい高校生活をピアノとともに過ごすはずのただの人だ。


「ありえ、ない」


 私は喉の奥から言葉を押し出す。

 掠れた声はすぐに消えて、窓を叩く雨の音だけが教室に響く。


 雨はひたすらざあざあと降っていて、すべてをかき消す。


 田中さんと教室に二人きり。

 見回りの先生も来そうにない。


 首を押さえる手が邪魔で、雨の音がうるさくて、苦しくて、うるさい。


 私は田中さんの手の甲に、爪を強く強く立てた。

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