第6話
ミルザレオスの街の端にある、古びた木造の家屋が立ち並ぶ通り。
街の中心部のように
この周囲一帯はスラムと呼ばれている貧民街だ。
広くはないが、そこに住まう人間は決して少なくない。
高い時計塔が立つ中心部の華やかさとはまるで別の街のように、混沌とした空気が混じり合っているその中を、アレッツは足早に歩いていた。
早朝のスラムには、酔ったまま路上で寝ている者がそこかしこにいる。
彼らを起こさないよう影のように歩いていたアレッツは、とあるアパートの一室に入っていった。
簡素なベッドが二つと、必要最低限の家具しか置かれていないその部屋が、アレッツの自宅だった。
ライハインには『スラムにいた頃』と咄嗟に言ってしまったが、実は現在もスラム街に住んでいた。
アレッツは上着をベッドに放り投げると、もう一つのベッドに視線を送る。
その上には誰もおらず、薄い毛布だけが置かれていた。
「ただいま」
無人のベッドに声をかけるアレッツ。
つい先ほど人が入っていたのかと思えるほど皺が寄っている毛布を、アレッツはしばし無言で見つめる。
「なぁ……。やっぱり、今でも信じられねえよ……グレッド」
アレッツの呼びかけに応える者はいない。
つい先週まで、アレッツは双子の兄グレッドと共に生活をしていた。
だがグレッドはフォッグの手により、帰らぬ人となってしまったのだ。
「今日は……疲れた」
小さく呟いた後、アレッツは狭いシャワー室に向かった。
※ ※ ※
アレッツたちに父親はいなかった。
どこかにいるはずなのだが、母親は夜の街で働いていたこともあり、最初から特定を諦めていたようだった。
母親一人の手で育てられていた二人。
決して裕福ではなかったが、それでも夜に母親が仕事でいない事を覗けば、特に不満はない生活を送っていた。
少なくとも、二人にとってはそういう認識だった。
そんなある日、二人は突然スラム街に連れて来られた。
「ここでしばらく待っていてね」
とスラム街の入り口に二人を置いて、母親はそれっきり帰ってこなかった。
アレッツとグレッドが7歳の時だった。
理由は明確にはわからないが、おそらく新しい男でもできて煩わしくなったのだろう――とアレッツはある程度大きくなってから察した。
幼い二人を憐れに思った路上生活の人から雨露を凌げる路地裏を教えてもらった後は、文字通り死に物狂いで日々を生き延びた。
ゴミ拾いから始め、靴磨き、農作業の手伝いで何とか収入を得て、安くて硬いパンを食べる日々。
それでも犯罪に手を染めなかったのは、グレッドの存在があったからだ。
「お金を貯めて、ちゃんとした家に住もう」
ひもじくて絶望的な状況であったにも関わらず、グレッドがそう言ってくれたからアレッツも何とか心を保っていられた。
アレッツにとって双子の兄のグレッドは、何よりも代えがたい光そのものだったのだ。
治安や生活環境が良いとは言えないスラムで、二人はそれでも逞しく生きた。
二人一緒だったからこそ、心が折れずに済んだ。
やがてグレッドは運び屋の仕事を始め、アレッツは食堂で働くことになった。
収入もある程度安定し始めた16歳になった頃、ついにこのアパートを借りた。
光がほとんど入って来ない狭くてカビ臭い部屋だったが、それでも二人にとっては夢を一つ達成した瞬間だった。
「いつかスラムの外で暮らせるように頑張ろうな」
グレッドはまた次の目標を決めてくれた。
その言葉の裏には、アレッツにはもっと良い環境にいてほしい――という兄の優しさがあったことを知っている。
なぜなら、アレッツもグレッドに対して同じことを思っていたからだ。
もっと綺麗な部屋に住んで、もっと柔らかいベッドで寝て、いつでも美味しい物を食べて――。
なにより、グレッドがもっと笑顔でいてくれるなら。
そんな想いを抱きながら働いていた。
あの日までは。
その日、アレッツはいつものように食堂での仕事を終え、帰宅している最中だった。
霧が広がる夜の道。
まかないで出された肉団子の残りが入った皿を持ち、足早に歩く。
路上生活者に匂いを嗅ぎ取られてひったくられる事が当たり前なので、いつもはまかないを持ち帰ったりはしない。
だがこの日は、二人の誕生日だった。
だからアレッツは、危険を承知で持ち帰ることにしたのだ。
自宅まであと少し――。
アレッツが歩く速度をより早めたその時、霧の中にぼんやりと浮かぶ人影に気付いた。
「グレッド?」
見間違えるはずがない。
双子の兄はアレッツと見た目はそっくりで、でも纏う雰囲気はちょっと柔らかくて――。
そんな毎日見続けている兄が、アレッツの帰りを待つかのように外に出ていたのだ。
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