第2話

「あ……? い、一体何だってんだ!?」


「ぐっ――!? 貴様ぁっ!」


 ミュグレの口から出てきた怒声に、店主はさらに瞠目する。

 その声はミュグレのものとは似ても似つかない、男性のように低い声だったからだ。

 それどころかザラザラとしていて、耳がとてつもなく不快になる。

 甘い彼女の声の原型は、もはやどこにもなかった。


『ミュグレ』の形をした黒い霧に向けて、青年はさらに床を蹴る。


「無にかえれ」


 無機質な声で述べた後。

 青年は銀のナックルを装着した拳を、黒い霧の頭部目がけて勢いよく振り下ろした。


 ゴッ――!


 鈍い音が店内に響き、黒い霧の頭部がへこむ。


「がっ――」


 ミュグレの姿をした黒い霧は短い呻き声を上げた後――。

 灰のようにサラサラとその場に崩れ落ち、跡形もなく消えてしまった。


「…………」


 店内に訪れる静寂。

 青年はふぅと一息くと、銀のナックルを胸の内ポケットにしまう。

 そして放心したまま固まっている店主へと振り返った。


「突然悪かったな。俺は――」

「もう、アレッツ君! 勝手に先行しないでくださいよ!」


 黒髪の青年の言葉に、別の男の声が重なった。

 店の中に慌てて入ってきたのは、空色の髪の青年。

 黒髪の青年より少し年上らしき彼は、背中に長剣を背負っている。

 彼の姿を見ると、アレッツと呼ばれた黒髪の青年は露骨にため息を吐いた。


「そんな嫌そうにため息を吐かないでくださいよ。新人の君に何かあったら、教育係の私が部長に怒られるんですからね……」

「勝手に怒られてくれ」

「嫌ですよ! ああ見えて部長、怒ると凄く怖いんですから」

「俺には関係ない」

「また君はそんなことを言う……。お願いですから、もう少しチームワークというものを――」


「あ、あの……。あんたら一体何なんだ……?」


 やり取りを遮ったのは、恐怖に怯える店主の声だった。

 二人は一瞬顔を見合わせた後、空色の髪の青年が一歩進み出た。


「お騒がせして申し訳ございませんでした。私たちはミルザレオス警察の者です。私はライハイン・パーシオ。彼はアレッツ刑事です」

「警察だと?」

「はい。制服の着用を義務付けられていない、ちょっと特殊な課でして」


 そう言うとライハインは、懐から警察の紋章が入ったブローチを取り出して店主に見せた。


「警察なのは間違いなさそうだが……。というより、さっきのは一体何なんだ? うちのミュグレちゃんはどうなっちまったんだよ!?」


 店主の問いにアレッツの眉が下がる。

 ライハインも幾分か沈んだ表情になり、静かに口を開いた。


「約2週間前、クラーセン川の下流で女性の遺体が発見されたのはご存知ですか?」

「あぁ、まぁ……。新聞で見たような……」


 クラーセン川とは、ここミルザレオスの街の外れに流れる川のことだ。

 そこそこ大きく、隣街とを繋ぐ巨大な橋が架けられている。

 遊泳も可能だが水深はかなり深く、年に数回は水難事故が起きていることもあり、川で遺体が見つかるのはこの街の人間からするとそこまで特別なことではない。

 だから店主も、新聞のその記事をサラリと流し読みしたのだが――。


「身元確認の結果、その遺体がミュグレさんだと判明しました」

「っ――!?」


 ライハインの言葉に店主は目を見開いた。


「先ほどのはミュグレさんの姿に擬態した魔物です。私たちは便宜上『フォッグ』と呼んでおりますが――」


「待ってくれ。2週間も前に死んでただって!? 彼女はその2週間の間もうちで働いていたんだぞ。行く当てがない彼女をうちで拾ってから6年以上、俺は毎日彼女を見ていた。姿どころか、性格も行動もいつものミュグレちゃんと何の変わりもなかったんだぞ!?」


「それがフォッグの嫌らしい特徴だ。フォッグは殺した人間の記憶を読み取り、さらにその姿に擬態して人々の生活に潜り込むんだ」

「なっ!? 嘘だろ……?」


「嘘じゃない。あんたも見たはずだ。彼女の姿を取ったフォッグが、俺に殴られた後灰になって消えていくさまを。あれこそがフォッグである何よりの証拠だ。俺のナックルは特殊な力が込められている。そもそも普通の人間を殴ったところで、あんなふうにならないだろ」


「そんな……」


 淡々としたアレッツの説明に、店主は力なく膝を付く。

 悲痛な空気が流れる中、ライハインは店主の手の中にそっと紙を忍ばせた。


「私たちの課はフォッグ討伐を目的として設立されました。あなたの身に何もなかったことが不幸中の幸いです。もしまた何かありましたら、こちらにご連絡ください」


 ライハインはうな垂れる店主の傍から離れ、アレッツと視線を合わせる。


「……行きましょう」

「わかった」


 今はどんな言葉をかけても、店主の慰めにはならないだろう。

 突然豹変してしまった日常を受け入れるには、時間がかかるはずだ。

 それを誰よりもわかっているからこそ、二人は無言のまま店を出たのだった。

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