ミルザレオス特務9課

福山陽士

第1話

 日が沈んでしばらく経った街を、霧が覆ってから数刻。

 煉瓦れんがが敷き詰められた大通りを足早に歩く黒髪の青年が、とある路地裏に入っていった。


 人とすれ違うのがやっとという幅の道沿いには、光を放つガス灯の看板が狭い間隔で並んでいる。

 霧のせいで看板の文字はぼんやりとしていて読めないが、街灯のない狭い路地を照らすには十分な光量だ。

 その読めない看板の下では、肩と脚を大胆に出した女性たちが営業用のスマイルで呼び込みをしている。

 俗に言う『飲み屋街』だ。


「あら、そこの顔が良いお兄さぁん。ちょっとうちで飲んで行かない?」


 溶かしたチョコレートのように甘ったるい声を出しながら、その内の一人の女性が青年に声をかけた。

『顔が良い』と評された青年は足を止め、近付いたことでようやく読めるようになった看板の文字と、女性の顔とを無表情のまま交互に見やる。


「…………」


 鋭い目つきの青年に見つめられた女性は、咄嗟に息を呑んでいた。

 これから店で酔って楽しくなろう――という表情にはまったく見えなかったからだ。


「寄らせてもらう」


 しかし青年のまとう空気とは裏腹に、彼の口から出た返事は意外なものだった。


「あ、ありがとうございまーす。どうぞこちらへー」


 青年の返答に面食らっていた女性だったが、すぐさま営業用の笑顔を取り戻し、彼を店内へ案内するのだった。





 店内に客はいなかった。

 10席あるカウンターに座っているのは空気だけ。

 カウンターの奥では店主らしき恰幅の良い男が、気だるそうにグラスを拭いている。

 が、店内に入ってきた青年の姿を見るや否や、曲がっていた背筋が棒のようにピンと伸びた。


「いらっしゃいませ」


 青年は店主と最も離れている端の席に座った。

 カウンターに座る位置で客の性格を何となく把握した店主は、この青年は話しかけられることをあまり良しとしないのだろう、と判断。

 青年が口を開くまで雑談を振るまいと決め、ただ黙々とグラスを拭くことに徹した。


 黒髪の青年は、店内へ案内してくれた女性を見つめ続けている。

 女性は笑顔で「ご注文はどうしましょう?」と青年に問いかけるが、それに対する返事がない。


(おいおい。ミュグレちゃんのファンになっちまったってか?)


 店主は横目で見ながら、心の中でため息を吐いた。


 プラチナブロンドの彼女は、店主から見ても確かに整った風貌をしている。

 というより、店主がミュグレを採用した理由は9割が容姿だ。

 それだけにこういう光景は、今まで幾度となく見てきた。


 とはいえ、いくら彼女が魅力的でも注文をしてくれなければ困る。

 店主が改めて声をかけようとした瞬間、青年は突然立ち上がった。


「かっ――!?」


 苦悶の声と息を吐きだし、目を見開いたまま体を前に折るミュグレ。

 何が起きたのか、店主には理解できなかった。


 青年の拳が彼女の鳩尾みぞおちに深く食い込んでいる。

 その拳には、銀色に光るナックルが装着されていた。


「おい、あんた!?」


 ようやく事態を理解し、咄嗟に声を張り上げる店主。

 カウンターから飛び出し、青年を取り押さえようと飛び掛かる。

 しかし青年は2撃目を素早くミュグレの腹に叩き込むと、その場から飛び退いた。


「近づくな!」


 青年の鋭い叫びに店主はひるむ。

 そしてその場から動けず、放心してしまった。


 突然青年に暴力を振るわれたミュグレの体が、サラサラと砂のような音を立てながら、黒い霧へと変わっていっていたのだ。

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