第37話
夕方の夕方のステージに向けて、いよいよラストスパート。
音響組はまず、機材類を会場の近くに搬入する。それから早坂のビラ配りに合流し、ギリギリまで会場周辺での宣伝を行う。
いっぽうのアイドル組は、高校に戻って最終チェック。ライブ全体の流れと振り付けを再復習することになっていた。
……つまり、残すところはもうライブだけなのだ。
言うまでもなく当たり前のことだが、俺にとってはあまりにも重苦しい事実だった。
「……」
余り分のビラを握ったまま、俺はひとり物陰にたたずんでいた。
悶々とした思考を、今の今まで振りほどくことができない。
昨日、俺が取った行動の一つひとつが、とんでもなく馬鹿らしいことに思えてくる。
ひと思いに気持ちを伝えてしまえば、どうにかなると思っていた。
だけどそれは、ただのエゴでしかなかった。
告白するということは、される側にも――場合によっては、ある種の長引く痛みを残していくことになる。俺はそのことに、さっぱり気づいていなかったのだ。
円花は今朝、きわめていつもどおりに振る舞ってくれた。変に気を遣われたくない、という俺の内情をよく理解していた円花だからこそ、ああいう接し方をしてくれたのだろう。
それなのに俺は……心ににじんだ辛さを、苦しさを……表に出してしまった。
円花はそんな俺を見て、きっと思い悩むのだ。
それがあいつの優しさだから。
現に、さっきの朝食のとき――悲しげに目を落としていた円花の表情が、今でもありありと浮かんでくる。
結末に差しかかるほど、俺たちの歯車は歪んでしまう。ここまで円滑に働いてきた機構が、いざというときになって狂い出す。
早急に修正すべきだ。しかし方法が見当たらない。だいたい、自分の感情なんてものは、自分じゃどうしようもならないのだ。……さっきみたいに無理やり抑えようとして、それでも知らず知らずのうちに、ぽろりとこぼれて落ちてしまうものなのだ。
ごまかしも何度かは通用するかもしれないが、それもいずれ……。
「どうしたのかな、後輩くん?」
「……ッ!」
急に横から声がかかって、思わず飛びのいてしまう。
音もたてずに近寄ってきた人影を、俺は数秒のラグを経てようやく視認した。
「あんたは……天川、詩音……?」
ハロー、と手のひらを小刻みに振り、愉快そうな笑顔を絶やさない。早坂の血は歴然だ。
「うちの社長がさ、営業所の近くに、なにやら怪しい人物が呆然自失と突っ立ってるって言うんだよ。ちょいと様子を見に来てみたら、あ、あのときの後輩くんだーって」
「……それで声をかけたんですか」
「だって、かれこれ十五分くらいぴくりとも動かないんだもん。おねーさん、メデューサにでもやられちゃったのかって心配になっちゃったよー」
「……ただちょっと、今日のライブのことについて思案していただけです」
「そかそか。確か、夕方の五時からだね?」
「ええ、そうです……俺、やることがあるので。これで失礼します」
そそくさとその場を立ち去ろうとする俺。
しかし……というか、やはり。
彼女はそう簡単に、俺を逃がしてはくれなかった。
「――今日で最後。すべてが終わる……そう、思っているんだよね?」
そのまま歩き出そうとした――が、ピタリと足が止まってしまう。
たぶんそれは……福音のごとく響き渡る、天川詩音の声色によるものだ。
科学的に説明はつかないけれど、彼女の声には人を惹きつけるだけのなにかがある。
「ある意味ではそうかもしれない。でも、またべつの意味では……今日こそがすべての始まりの日。そうでしょ?」
「……あんたには、そう見えてるんでしょう。確かに円花はそうですよ、今日はあいつにとって、新たな一歩の始まりです」
「違うよ」
毅然とした声で、しかしその表情はいくぶん柔らかいままだった。
「後輩くんたちにとっても、今日は始まりの日なんだ」
「……いいですよ、そういうの。部外者の勝手な解釈なんか聞かされて――」
「そんな態度で、きみは円花ちゃんの背中を押してあげられるのっ⁉」
―――………ッ‼
ぐわんぐわんと反響していく。
今しがたの言葉が、俺のなかで……深い部分まで到達するのに、そう時間はかからなかった。
「……きみはきっと、円花ちゃんのことを大切に想ってる。
ほんとうは離したくない。誰にも渡したくない。
だけどきみは、円花ちゃんのことを想うからこそ……今日、ここまでたどり着いたんだ」
「…………」
「だから、今日だけは……彼女のために、そして自分のために――前だけを向いてあげて。
そうすればきっと、きみにも分かる瞬間がやってくるはず。
今日のライブは、終わりの代名詞じゃない。
またここから、新しく進んでいくための一歩なんだよ。
きみにとっても。仲間たちにとっても。円花ちゃんにとっても。
そして……観てくれるお客さんたちにとっても。
そういうふうに思えるライブを、わたしは後輩くんたちにやってほしいんだ」
天川詩音は、柔和な笑顔を浮かべたまま……そっと、俺のほうへ歩み寄ってきた。
目を見開いたまま固まる俺の肩を、やにわに掴む。
俺はそのまま、くるりと逆方面を向かされた。
勢いそのままに、背中の一点をぐいっと前方に押し出される。
「ちょっ……なにするんですか!」
「えへへー。物理的に背中を押してみましたっ」
すっかり元の調子に戻っているらしい。
快活明朗なテンションで、彼女は俺にぶんぶんと手を振る。
「ではでは、またステージで会おう、後輩くん!」
陽気な足取りでどこかへと去っていく天川詩音の姿を、俺はしばらく呆然と眺めた。
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