第36話



 永遠に続いていくように思われた夜にも、やがては今日の光が差し込んでくる。


 ドル研の面々は寝起きがあまりよろしくないようで、むくりと顔を上げるなりふらふらと洗面所に出向いたり、シャワーを浴びに浴室へと向かったりする。


 その間に、俺と円花はせかせかと準備にいそしんでいた。


 べつに急ぐ必要はない。会場が取れているのは昼の三時から、開演に至っては五時なのだ。


 けれど、なんとなく……身体を動かしていなければ、気持ちが落ち着かない。


 なにもやることがないからといって、黙って物思いにふけるのだけはごめんだ。なんでもいいから手を動かして、少しでも気を紛らわせたかった。


 メモがびっしりと書き連ねてあるセトリを眺めていると、背後から円花が声をかけてくる。


「悠くん、朝ごはんはどうする?」

「え? ……あ、ああ。今のうちに軽く作っとくか」


 今は早坂がシャワーを浴びていて、四条は脱衣所の前でうつらうつらとしながら順番待ち。自分の番が永久に回ってこないことを悟った日暮は、シャワーを浴びに一旦帰宅している。またここに全員が集まるまで、三十分ほどはかかるだろう。


「なら、わたしも手伝うね」

「……わ、分かった。じゃあ頼む」


 普段のように振る舞おうとすればするほど、どこか俺の口元はたどたどしくなってしまう。


 正直、引きずっていないと言えば嘘になる。


 なるべく円花に気を遣わせたくないのに、肝心なところで俺はポンコツだった。


「まあ、作るといっても……トーストと、スクランブルエッグくらいだが」

「充分だと思うよ? わたしなんか、料理のりの字もしたことないし」

「いつも忙しいからな」

「ううん。ものぐさなだけ」


 少し恥ずかしそうに頬を掻きながら、円花はリビング直通のシステムキッチンに足を踏み入れる。


「なにすればいい?」

「冷凍室のなかに、食パン入ってるだろ。六枚焼いてくれ」

「うん……六枚?」


 その数字に疑問を浮かべたようで、円花はわずかに頭を傾ける。


「もうじき、母親が帰ってくるかもしれないしな。いちおう作っておいて、帰りそうになければラップをかけて冷蔵庫行きだ」

「あ、そっか」


 合点がいったというように、円花はぱちんと手を合わせる。


「優しいんだね、悠くん」

「うちはいつもそんな感じだぞ。両親とも忙しいし、家事手伝いくらいはな」


 ただし俺も基本はものぐさなので、苦にならない程度のことしかこなせない。その最たる例がスクランブルエッグというわけである。


「戸棚に平皿があるから、人数分出しといてくれ」

「うん。分かった」


 円花はくるりと背を向け、少し高い位置にある戸棚へと手を伸ばす。足元はつま先立ちだ。


 危なっかしいが、そこはさすがと称えるべきか……落ち着いて枚数分を取り出してから、一枚一枚を丁寧に並べていく。


 甲斐甲斐しく手伝いをする彼女を、俺は夢うつつに見つめていた。


「……悠くん? どうしたの?」

「いや……、なんでもない」


 冷蔵庫を開いてみると、卵は六個。……これでは腹の足しにもならないだろうが、トースト一枚の貧相な朝食よりは、やはり少しでも華を添えたほうがいいだろう。


 調味料とバター、それに牛乳を取り出し、いい塩梅にボウルへと投入。あとは菜箸でかき混ぜ、バターを乗せて熱しておいたフライパンに流し込む。卵が固まってきたところで再度かき混ぜ、仕上げに粉チーズを振りかける。


 フライパンをIHコンロから離す。少し冷ましてから、俺は円花が今しがた並べてくれた平皿へ、均等に盛り付けていく。


「すごい、本格的だねー」

「スクランブルエッグなんて、誰が作ってもこんなんだぞ」

「でもこれ、ホテルの朝ごはんにあるのとそっくりだよ」


「加減さえ間違わなきゃ、誰だってできる」

「わたしがやったら、きっと真っ黒こげだよ」

「かもな」


 くすくすっ、と円花が笑う。

 どこにでもあるような、ありふれた会話。

 なんてことはない、日常のワンシーン。


 ――もし、そうだったとすれば。


 この時間はどれほど幸福なものだっただろう。


 この期に及んで、俺はそんな思考を働かせてしまう。


「……あとは適当にミニトマトでも添えておくか」

「じゃあ、わたし洗うね」

「ああ、頼む」


 円花がパックのミニトマトをじゃぶじゃぶと洗っているうちに、俺は残りの食パンをトースターに放り込んだ。


 盛り付けが終わった皿から、円花がトレイに乗せてローテーブルへと運ぶ。


「先に食べててもいいぞ」

「ううん。みんなが来るまで待ってる」

「……そうか」


 温かいうちに食べるのが圧倒的に美味しいのだが……まあ、円花は昔からこういう奴なのだ。


 ――トーストの四枚目が焼き上がるころには、早坂が風呂から上がってきた。


「びっくりしました……これって、センパイがたお手製の朝ごはんですか⁉」

「もうできてるのあるから、食いたきゃ食っていいぞ」


 そう言ってやると、早坂はソファーにちょこんと座っている円花と、台所で牛乳を注ぐ俺を交互に見比べ、


「ひなたも待ちますっ!」


 まだ湿り気の残った後ろ髪をタオルで撫でつけながら、「円花さーん♡」とソファーに飛び込んでいった。


 そこからさらに十分ほど経ち、日暮と四条もリビングへ戻ってきた。


「わ、ゆーくんホテルのモーニングばい!」

「おいおい堀川、メシあんなら先に言ってくれよ」

「日暮センパイ、いらないならひなたがもらっていいですか?」

「ハハッ、残念だったな。俺には別腹ってもんがあんだぜ?」

「朝ごはんに別腹もなにもなかと……」


 思い思いの場所に座り、全員がそろったところで手を合わせる。


「「――いただきますっ!」」


 各人がまず箸を伸ばすのは――俺が作ったスクランブルエッグだ。


「うんっ、美味しか!」

「なかなかどうして、上品なスクランブルエッグだよな」


 すっかり冷めているとはいえ、ふわふわ感はまだ健在だ。わりと上手くできていると思う。


「これ、堀川と円花ちゃんで作ったのか?」

「わたしはお手伝いをしただけです。ほとんどは悠くんが作ってくれました」


 円花が恥ずかしそうに補足すると、四条はなぜか満足そうにニコニコと笑う。


「うんうんっ。よかよか」

「ですねっ。なんだか微笑ましいっていうか!」

「家庭的な雰囲気っつうか?」

「え……そ、そうですかね?」


 三人の生ぬるい目線に戸惑いながら、円花はそれぞれの顔をおどおど見比べていた。


 ……こいつらには知る由もないのだ。


 俺と円花はとっくに、そういう関係性にはなり得ないということを。


「ゆーくんも! そがん居心地悪そうな顔せんでもよかろーもん?」

「いや、べつに俺は……」

「どうしたよ堀川、もしかして緊張しいなのか?」


 冗談交じりの声音で、日暮が訊いてくる。


「……ああ。そうかもな」


 今の俺には、そう答えるのがやっとだった。


「……お、おう……?」


 拍子抜けした日暮は、それ以上の追及をしてくることはない。


「……ゆーくん?」

「なんだか、センパイらしくないです……?」


 そんな早坂の一言がきっかけとなって、隣にいた円花までがさっと目を伏せる。


 ――くそっ。俺はこんなときにまで、円花の邪魔をしてしまうのか。


 なるべく平然と、この朝をやり過ごすつもりだったのに。


 昨晩、俺と円花の間で起こった出来事の痕跡を……すっかり消しておくつもりだったのに。

 俺がそのことを引きずれば引きずるほど、きっと円花は、罪悪感を抱き始めてしまうのだ。


 どこまでもお人好しな、こいつのことだから。

 そのことばかり考えて、もし今日のライブが上手くいかなかったら――?


 ……駄目だ。悪いほうにばかり考えてしまう。


 捨てろ。個人的な感情なんてクソ喰らえだ。そんなもののせいで、これまでの努力が水の泡にでもなったら……お前はどう責任を取るつもりだ?


 俺は必死になって、なんでもないように振る舞ってみせる。


「とにかく、さっさと食って支度だ。今日だって、まだまだやることはあるからな」

「……だな。俺らは余ったビラ配りだっけか?」

「ひなたもお供しますから、センパイがたは安心してくださいねー」


「そりゃ百人力だな……あれ? もしかして俺たちいらない感じ?」

「入り用に決まってますよっ。人海戦術ってやつです!」

「たった三人じゃねえか……」


 ――日暮と早坂がわちゃわちゃとやってくれたおかげで、俺はその場をどうにかやり過ごすことに成功した。

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