第35話



 花火の後片付けを終えてからも、しばらくはスナック菓子をつまみながらの歓談が続く。


 それも峠を越えると、リビングにはゆったりとした時間が流れ始めた。


「……、……」


 音にもならない寝息がそこかしこから聞こえ始めたのは、日付が変わってしばらく経ってからのこと。


 四条と早坂は、ソファーで肩を寄せ合いながら眠りに落ちている。日暮に至っては、横柄にもカーペットの上に大の字で寝転がっていた。


 照明を最小限に落とすと、二人以外が寝静まったリビングには、うすぼんやりとしたオレンジ色の光が満ちる。


「……ごみ、片づけるね」

「ああ、すまん」


 ローテーブルに散らかったゴミ類を、俺たちは黙々と片づける。


 一つひとつの物音が、とても鋭敏に感じ取れた。ビニール同士のこすれ合う音。紙くずが丸められる音。グラスが響かせる、硬質で混じりけのない音。


 それらをすべて台所に集める。きちんと仕分けをしてから、誰も起こさないような水量で、かわりばんこに手を洗った。


「……また、庭に行こう」

「……うん」


 それだけ交わして、俺たちは二人で外に出る。

 頭上を見上げると、点々とした星たちが空一面にまぶされていた。



 だがそれだけでは不十分だった。よくある物語のように、星空の灯りだけで語り合えるほど――俺たちは暗がりに慣れてはいない。


 人感センサー式のライトがあるテラスまで歩くと、充分な光がぱっと供給される。


 室内から持ってきた電池式の虫よけを置いて、俺たちはテラスの段差に腰を下ろした。


 しばらくは、そのままだった。


 前にも同じようなことがあったのを思い出す。

 円花はただじっと、俺を待ってくれている。


 背後にある大窓はリビングに直結しているため、なるべくこちらの話が聞こえたりしないよう、俺は慎重に声を発した。


「……正直なところ、だけどな」

「うん」

「俺は今でも、自分のなかに矛盾した考えを持っている」

「うん」

「ひとつは、ドル研の一員として……お前を素直に後押ししたい。これから先、どこに進むかはお前次第だ。その『答え』を見つけるまでは、ずっと協力してやりたい」

「……うん」


 夜間用のライトに照らされて、丈のそろった芝生が少し先のほうまで照らされている。


 足元は明るいのに、目線を這わせていくにつれて、だんだんと薄暗くなっていく。その先は完全に真っ暗で、ほとんどなにも見えなかった。


「それで、ふたつめは……――、」


 言いかけて、何度も言いかけて……しかしどうしても、喉元で引っかかってしまう。


 早坂や天川詩音のような、何事も臆さず発言するような豪胆さは……俺にはないのだ。


 人にはそれぞれの想い方がある。


 俺はただ、円花の感情を惑わせたくないのだ。

 俺自身の手によって、円花の選択に揺らぎを生み出したくないのだ。


 そのために俺は、その先を言い出すことが――。


「大丈夫だよ、悠くんっ」

「――ッ」


 その温かな左手が、逃がすまいとして俺の右手首を掴む。


 そうして、自分の膝の上までゆっくりと持っていき……俺の手のひらを、柔らかく両手で包み込んだ。


「今度は、わたしが……」


 じくりとしたほろ苦い痛みが、心のなかにまで迫ってくる気がした。


 こもっていた力が、するするっと抜けていく。

 こらえていたはずの感情が、気を抜いたとたんに噴出してしまいそうになる。


 隣にいる円花は、ほんの一瞬だけ大きく息を吸った。

 身震いするほど美しい旋律が、そっと俺の鼓膜を震わせる。


  嬉しくって笑うきみの姿も

  悲しげに目をそらすきみの姿も

  心の内側に いつも描いてるから

  隠さなくったっていい


  涙もいつか 空に還るはずさ

  ここにいたって どこにいたって

  僕は歌い続けるよ

  きみが望む この唄を

  きみに灯る この唄を


「――詩音さんが、わたしにくれた詩(うた)だよ。

 こんどはわたしが、悠くんに。

 ……悠くんだけに、あげるね」


 目前にいる女の子は、まるで光の粒子となって消えてしまいそうなくらいに――儚くも愛おしい笑顔をいっぱいにたたえた。


 それはドル研オリジナル楽曲『きみに灯る唄』の一節。

 天川詩音がドル研で作詞を担当した、最後の曲だ。


 ……勘の悪い俺でも、察してしまう。


 もしかしたら……いや、きっと。

 円花はもう、とっくに――――。


「……悠くんは、いつでもわたしに勇気をくれた。

 アイドルが上手くいかなくて、苦しいときも。

 自分の進むべき道が分からなくて、自暴自棄になっちゃったときも。

 わがままなわたしのことを、ずっと真摯に考えてくれてたんだよね。

 わたしだって、ちゃんと分かってたよ。


 とっても、嬉しかった。

 だからもし、悠くんが……ちょっとでも困っちゃったとき。

 一番乗りに手を差し伸べるのは。

 その背中を押してあげるのは。

 絶対にわたしの役目だって、決めてたんだ」


 一言ずつ、心をこめるように――円花は俺に語りかけた。


 ぎゅっと握られる手が、少し熱い。

 じんじんと痛みを増していく心。


 もうすべてを洗い流すよりほかは、ないのかもしれない。

 どうしようもなく、そう思わされた。


「………なあ、円花。

 俺は……ずっと、お前と一緒にいたい。

 俺だけを見ろなんて、高慢なことは言わない。

 ただ、俺を一番に見ていてほしい。

 俺は……この三週間、いや、たぶん……それまでだって、ずっと。

 心の奥深くでは、お前のことだけを見てたんだ。


 忘れたくて、でもどうしても……忘れられなかった。

 ……お前が『答え』を見つけ出すラストチャンスだとしたら。

 俺にとっても、きっと……これが、ラストチャンスなんだろうな」


 だから、これが――俺の本心。


 なんのことはない、ただの平凡な高校生の。

 嘘偽りのない、ありのままの気持ちだ。


「円花のことが好きだ。ずっと、俺のそばにいてほしい。

 心の裏側なんかじゃ、もう耐えられないんだ。

 目で見て、声を聞いて、手で触れあえる……ここに、いてほしい」


 みずみずしく潤んだ瞳が、俺にまっすぐ向けられていた。

 はらりと前髪が落ちて、その目が少しだけ細められる。

 白く整った鼻筋が、美しい陰影を右側の頬に作り出している。


 ああ……どうして、こんなに。


 泣きたくなるほどに、こいつは……円花は、こんなにも可愛く映ってしまうのだろう。


 抱きしめられるほど近くにいるのに、決して届かない。

 その手に包まれた俺の指先は、ずっと小刻みに震えたまま。


「……ごめんね、悠くん」


 静かな宣告は、分かってはいても……俺の心を引き裂くには充分だった。

 だけどそれも、ある意味では喜ばしいことなのだ。


 撞着が過ぎるかもしれない。

 けれど俺にとっては、それこそが真実であり、本心だった。


「――わたしも悠くんのこと、大好きだよ」


 染み入るような音色で、その言葉が俺の全身に行き渡っていく。

 それと同時に、俺はただひたすら……声を上げずに泣いていた。


 そんな俺に肩を寄せて、包む手のひらはそのままに。


 円花はずっと、ずっと……俺のそばを離れなかった。

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