第30話



 西日もかなり落ち込んできて、この日は現地解散ということになった。


 いつものことだが、それぞれ帰り道がバラバラだ。各々二人組に分かれて、「また明日」と互いに手を振り合う。


 今日の帰り道は遠い。物理的にも、精神的な意味合いにおいても。


「ほぁ……」


 天川詩音に抱きしめられた衝撃で、円花はまだ熱にほだされているようだった。

 焼けるような頬に両手を添えたまま、その視線はずっと己のつま先に向いている。


「大丈夫か、お前」

「ふえっ……?」


 とろんとした目で、円花はおざなりに俺の顔を見上げる。こりゃ駄目だ。


 次の言葉に迷う。

 今の円花には、あまり突飛なことを話しても仕方ないかもしれない。


「……まさか、あの人が天川詩音だとはな」

「……うん……」

「嬉しかったのか」

「……たぶん……」


 あまり要領を得ない返事だった。


「まあ、お前がずっと憧れた人だしな」

「……でも。それだけじゃなかった、かも」

「……どういう意味だ?」


 いつもより危なっかしいリズムで足を踏み出し、そのたびに、凛とした光沢を放つ円花の髪が揺れている。


「あの人は……わたしの心にずっといた、詩音さんじゃなかった」

「……?」

「別に、それが嫌だとか、そういうわけじゃないよ。でもね……なんだか、遠いなあって」

「遠い?」


「なんていうんだろ……。精神、かな」

「精神年齢とか、そういう話か」

「うん、そうかも。……詩音さんの言葉は、どこまでも正しいと思う。でも、今のわたしにはちょっぴり――心強すぎるかなって」


 心強すぎる。その表現に、俺はなんとなく引っかかりを覚えた。


「わたしには、あまりに大きすぎる存在だったのかも。もちろん、詩音さんに言葉をかけてもらえたのは、心から嬉しかったよ。でも、それでも、わたしは……」


 続くはずだった言葉を、円花は寸前で飲み込んでしまう。

 無言のコミュニケーションが続いた。


 こつこつ、とローファーがアスファルトを叩く音。てんでバラバラで、だけどたまには折り重なって、不思議なリズムを生み出していく。


 まるで今の俺たちみたいだ、と思う。

 向かっている場所は、確かに同じはずなのに。


 なにかがズレているのだ。俺と円花の根底には、決定的に違うなにかがある。

 きっと円花も気づいているはずだ。


 でも、それが何なのか分からない。


 そういうときに決まって起こるのが、こういう沈黙なのだ。


「ね、悠くんはさ」


 フラットな口調で、円花が話しかけてくる。

 こういう切り口のときは、決まって同じ質問だ。


『悠くんは、どうすればいいと思う?』――。


 何度も訊かれたが、俺は大して気の利いた返事ができないままだった。

 今回はどう答えようかと思案していると、


「……悠くんは、どうしたいの?」

「……っ!」


 思わず息が詰まる。

 はっとして円花の表情を見た。


 綺麗に切りそろえられた前髪のすき間から、おぼろげに輝く二つの目が、俺のことをただじっと捉えていた。


「……ええと、それは……」

「ちょっといじわるな質問で、ごめんね」

「……いや、そんなことは……」


 口ではそう返すが、実際のところかなり答えにくい問いだった。

 けれどもそれは、もう残りわずかとなった夏休みのうちに、俺が導き出さねばならない答えの糸口にもなる。


「ずっと気になってたんだ。悠くんがどうしたいのか」

「……俺はただ、幼なじみのお前のために、なにか協力してやれればと――」


 ふにっ、となにかが俺の頬に強く押し付けられる。


 それは円花の人差し指だった。痛みを感じないほどの力かげんで、ぷにぷにと頬の肉を突っついてくる。


「悠くん、嘘つくとき目を左に逸らすでしょ」

「……いや……」

「それとも、わたしには言えない?」

「――!」


 心の底まで見透かされているような感じだった。


 きっと円花も、さっき天川詩音に抱かれていたとき……同じような気分になっていただろう。


 不思議な引力を宿した円花の瞳が、吸い付くように俺の視界へと入ってくる。


 ――言うべきなのか。


 たとえば早坂のように。

 率直に想いを伝えれば、円花の心を動かすことができるのだろうか。


 だが……それだけは許されない、と強く引き留める心も、俺のなかにある。


 ――俺の言葉で、万が一にでも円花を惑わすようなことがあってはならない。


 ずっとそう考えてきた。だから俺は、円花の思うように、したいようにさせることを選んだ。


 しかし、俺のそんなやり方に真っ向から反するような存在……早坂ひなたがドル研に現れてからというもの、円花はまたひとつ前を向くことができた。


 妙に気持ちを推し量ることをせず、ただただ自分の想いをぶつけていく。そのやり方はどうにも俺の性には合わないが、いつまでも本心をひた隠しにしているのも、きっと好ましい方法ではないのだろう。それは分かっている。


 ……だけど。俺はどうしても、本心を言葉にすることができない。


 ほんとうは、円花に『最初の気持ち』をすっかり思い出してほしくはないのだ。


 アイドルの現実に失望してくれていい。そのまま俺に泣き縋ってきてもいい。というか、今すぐにでもそうしてほしい。


 俺の望みが叶うことがあるとすれば、それは円花がアイドルに見切りをつけた、その瞬間しかない。円花がひとりの女の子として、心のいちばん深く柔らかい部分を傷つけられ、弱り切ったその刹那に――あわよくば俺が、その心を盗んでしまいたいとさえ――思う。


 そんな、あまりに残酷な男の本音を……この無垢な幼なじみに、誰が言えるというのだろう?


 想いをぶつけるのは、確かに美しいことかもしれない。


 ただそれは、美しい想いばかりを抱く、善良な人々に限って与えられた特権だ。

 早坂のように。天川詩音のように。打算なく、ただ一途に、純粋に。


 彼女たちは『なにか』を想い続けてきた。なればこそ、その言葉は人の心に響くのだ。

 俺の汚い心がなにを言おうと、隣にいる幼なじみの心など動かせるはずがない。それどころか、あまりの下劣さに、卑怯さに、嫌悪感さえ抱かれてしまうかもしれない。


 ――だから、俺は。


「なあ、円花」

「はい?」

「その……――」


 本心をぶつけるのは、きっと……。

 言葉に頼らずとも、いくらでもやりようはあるのだ。たとえば――。


「あの、な。……手を、繋いでみないか」

「…………、」


 まるで熱湯を頭からかぶったようだった。


 返事なんていらないとさえ思う。俺はずっとそっぽを向いてばかりで、まともに円花と目を合わせられやしない。


 俺らしくもない。とんでもなくアホなことをしたものだ、と心中でつぶやく。


 ――しかし。


「……うん、いいよっ」

「え……」

「繋ごうって言ったの、悠くんだよね?」

「あ……まあ、そうだけど」


「だから繋ごうよ」

「……えっと、その、いいのか?」

「? いいけど……?」


 不思議そうに首をかしげて、円花はちらりと歯をのぞかせた。


「じゃあ、はいっ」

「……おう」


 差し出された円花の右手に、俺はゆっくりと自分の左手を近づけた。

 柔らかい感触が指先になじむ。俺よりわずかに高い体温を帯びていた。

 ぎこちないながらも、お互いの手のひらをきゅっと握り合う。


 それはもちろん、恋人のような繋ぎ方ではなかった。親と子がテーマパークでそうするのと変わらない。ただそこにいるという実感を得るための、もっとも確かなやり方だ。


「悠くんの手、ちょっと冷たいね」

「円花のは、少し温いな」

「……なんかそれ、ちょっと変な気分かも」

「なにがだよ」

「えへへ。よく分かんないっ」


 楽しげな表情で、円花はふにゃりと頬を緩ませた。


 その笑顔があまりに可愛くて、俺はすぐにでも気持ちを伝えたい衝動に駆られる。


 それでも俺は、沸き上がってくる欲望をぐっとこらえた。


 円花の温かな手のひらを、何度も何度も、痛みのないように握りしめながら。

 まだまだ続いていく帰り道が、どうか少しでも長くなりますように――。


 そんな醜い祈りとともに、俺は円花の隣を歩いた。

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