第20話
突き抜けるような夏空が、まぶしいくらいの橙色を雲のすき間に塗りたくっていた。
今日の練習はこれにて終了。
施設側の好意で、既に予約している翌日いっぱいまで機材を置かせてもらうことになり、俺はありがたく手ぶらで帰宅することとなった。
「じゃあな、二人とも」
「また明日ばい!」
四条と日暮が、快活に別れの挨拶をくれる。
「おう」
「はい、また明日っ!」
ぱらぱらと手を振って、俺は四条たちの背中を見送った。
どうやら、すぐになにかを言い争い始めたようだが……その肩同士は、ともすれば触れ合いそうな距離感だ。
「……俺たちも、帰るか」
「はい」
素直に返事をくれる音海と並んで、俺はまたいつものように歩き始める。
見慣れた街並みが続く。区画整理から二十年ほどしか経っていないためか、この地区はどこを眺めても整然としている。
等間隔に並ぶ街路樹。新しい住宅街。整備された公園。
郊外型の大型ショッピングモールが誘致され、周囲にもたくさんの大型専門店が立ち並ぶ。水をテーマにした挙式場、学生客を狙ったゲームセンター。
なにもかもが新しい街のように見える。それでも、俺たちにとってはここが故郷だ。
俗にいうノスタルジーとはかけ離れた舗装路を、俺たちは静かに進んでいった。
分かれ道に差しかかったところで、俺は不意に足を止めてみる。
「……なあ。いつもの公園に行かないか」
いきなりそんなことを言い出すものだから、音海はさぞ驚いただろう。
……と思ったが、意外にもそうではなかったようで。
「いいですね。行きましょうか」
優しげな目元で、音海は俺に笑いかけてくれた。
いつもの公園――というのも、住宅街のすぐそばに整備された、ちょっとした憩いの場のようなところだ。
昔、音海と一緒によく訪れていた場所。
アスレチック遊具がそう多いわけでもないから、適当にボールなんかを持っていって、二人で日が暮れるまで遊んだ。年齢が上がってくると、ベンチに二人で腰かけ、携帯ゲーム機で通信して遊ぶこともあった。ときには手ぶらで、波のひとつも立たない水面を二人で眺めながら、日がなぼうっとしていたこともある。
公園にはすぐに到着した。
俺にとっては、ただの日常の風景。だが音海にとっては、強く郷愁を催すものだったようだ。
「わあ……懐かしいです、ここ」
ぱたぱたと駆けていって、音海は公園を一望する。懐かしいものが目に映るたびに、どこかはかなげな表情で目を細めていた。
人口池の周りにぐるりと柵がめぐらされていて、子供のための遊具やベンチがぽつぽつと点在している。昼間は甲高い声で満たされる場所だが、この時間になると人もまばらだ。
「あそこに座りませんか?」
音海が指したのは、わずかに傾斜のかかった芝生の上に設置されている、木製のベンチ。
「……ああ」
俺から誘ったというのに、なぜだか主導権を握られている気がするな。
いや……思えば、昔はずっとそうだったか。
俺はいつも、こいつに腕を引っ張られる側の人間だったから。
どちらからともなく、ペンキの剥げかけた座面へと腰を下ろす。
……どことなく落ち着かない。あの頃はなんの気兼ねもなく、こうして隣り合わせに座って、意味もない未来を語り合っていた気がするのだが。
静かな時間が過ぎていく。
音海の気遣いに、さすがの俺も気づいていた。
言葉を待ってくれている。急かすこともない、そう考えているのだろう。
無言の歩み寄りが、この場のなによりも俺の心を和ませた。
「……こうやって話す機会を、もっと早くに作ればよかったんだが」
我ながら意味の分からないことを口走ってしまう。もっと素直になればいいのに。
「まず、な。お前が帰ってきてから、なんか変な感じになってるだろ」
「……そうですね。少なくとも、以前とは……」
寂しげに視線を落として、音海は次の文字を探しているようだった。
「……でもそれは、わたしが――」
「いや、そうじゃなくて」
「……え?」
「俺は、少し気が動転してたんだよ。……お前が帰ってきた、あの日」
あの衝撃は、今でもはっきりと脳裏にこびりついていた。
「それで、流れでお前のことを『音海』って言っちまった。……奴らが近くにいたのもあったけどな。あのときはどうしても、お前をお前として、きちんと受け止めきれなかったんだ」
静かなうなずきが、すぐ隣で感じられる。
俺はただひたすら、視線の先にある「池に入ってはいけません」の立て看板を見つめていた。
「それからはこう……中途半端な気持ちのまま、お前と接してきた。当たり障りのない会話ならできる。ドル研のメンバーとして、それ以上でも以下でもない、みたいに……」
「……はい」
「けどそれは、俺の本心じゃないんだよ」
意を決し、俺はようやく音海の顔を見た。
細い眉の上に、ぱらぱらと振り落ちる前髪の束。
そのすぐ下にある、飲み込まれそうなほど大きくて黒い瞳が、まっすぐに俺を見上げている。
ちょこんとついている、筋のいい鼻先。
わずかに開かれた、小さい口元。
少し身をよじるたびに香る、爽やかなトリートメントの匂い。
「昔のままでいてくれるか、円花」
俺の呼びかけに呼応するように、その目が大きく見開かれた。
でもそれはすぐに、ふにゃりとした笑顔に変わる。
ぷっくりとしたえくぼが現れて、その懐かしいくぼみに、俺の視線は思わず吸い寄せられた。
「うんっ。わたしも……わたしもね。おんなじ気持ちだったよ。ずっと……悠くんと」
スカートの上で組んだ両手を、円花はもじもじと絡ませた。
「……でも、やっぱりずっと、こうも考えてた。『怒ってるのかな』って」
「いや、そうじゃないんだ。俺はただ――」
円花の人差し指が、そっと俺の頬の肉を押さえた。
「うん。分かってるよ」
そのままむにむにと、もてあそぶように肉を突っついてくる。
「さっきの、悠くんの言葉を聞いたから。……ちゃんと届いたよ」
俺に向けていた右手を、今度は自分の胸元へと持っていく。
とんとんと、なだらかなその部分を指の腹で叩いてみせた。
「じゃあ、今度はわたしの番だね」
改まった様子で、円花は上半身ごとこちらへ向き直る。
「あのとき。悠くんにさよならを言えないまま、東京に行ってしまったこと……。ほんとうに、ごめんなさいっ!」
「……」
円花が深々と頭を下げて――。
言っただろ。べつに怒ってないって。
そう口にするべきか逡巡して。
でも今は、きっとなにも言うべきではなくて。
さっき円花がそうしてくれたように、俺も誠実な気遣いをしてやるべきだ、と思った。
ただ黙って、俺はその続きを待つ。
「……あのときね。ずっと悩んでたんだ。
パパとママは、絶対にきちんとお別れするべきだって言ってくれてた。
でもね。わたしは……すごく、怖かったんだ。
だって、いつも一緒にいた悠くんとお別れするんだよ?
お別れをするってことは……、もう二度と会えなくなるって意味だと思ってたから」
すがりつくような音海の手が、そっと俺のシャツに伸びてくる。
掴みたいのなら、掴ませればいい。
俺はそのまま動かなかった。
「……東京に行く日の、早朝にね。
わたし、ずっと家の玄関で大泣きしてた。
自分で行きたいっていったのに。バカみたいだよね。
ずっと叫んでたなぁ。悠くん、悠くん、悠くん――って。
でも最後にはママに、『自分で決めたことだから責任持ちなさい』って怒られちゃった。
キャリーケースを引いて、家を出て。
静まり返った悠くんちの前を通りすぎたとき、やっぱり涙が止まらなかった。
だけどそこで振り返るわけには、いかなかった。
だってこれは、夢を叶えるための出発だもんね」
ぐっと、ワイシャツにすがりつく力が強くなる。
「東京に行ってから、わたしはずっと孤独だったんだよ。
恋しかったなぁ……こんなふうにすぐ近くに、
見慣れたこの顔が、
触れ慣れたこの身体が、
嗅ぎ慣れたこの匂いが、
ずっとそばにいてくれたらって、なんども思ったよ。
そのことばかり考えて、ひとりで泣いた日もあったなぁ。
どうしても上手くいかなくて、わたしはどうしてここにいるんだろうって。
そのたびにママの言葉が、ぐるぐる浮かんできちゃったりして。
責任持たなくちゃ、頑張らなくちゃって、毎日自分に言い聞かせてたんだ。
だけど。ひとりっきりの夜が巡ってくるたびに、わたし、思っちゃった。
間違えた。間違えた。間違えた。
わたしは生き方を間違えちゃった。
二度と戻らない日々を捨てちゃった。
楽しかったはずの日常を手放しちゃった。
……ねぇ、どうしよう? どうする? ……わたしは、どうすればいいの?」
心髄にまで届きそうな、柔らかい円花の声がする。
その小さな顔が、俺の胸元にとん、と押し付けられる。
もたれかかってきたのは、心地いい重さだった。
「高校に入って、やっと、やっと……アイドル活動ができるようになって。
今のプロデューサーは宣伝が上手だった。だから、数字はすぐに出るようになったんだ。
でもね……その代わり、何度も何度も、ユニット内で競わされちゃった。
シングルCDのなかに握手券が入ってて、それを使えば、ファンが握手会に来てくれる。
そこで何人のファンが来たのか。それでまず、順位が決まるんだ。
――ずっと言われてた。
センターのくせに、今月も音海がビリだぞって。
こんな成績が続くなら、嫌でも脱ぎ仕事だって引き受けてもらうからな……って。
アイドルとして、わたしが与えようとしているもの。
偉い人たちが、わたしから引き出そうとしてくるもの。
それがぜんぜん違って、嫌だったんだ。
それでもね。隠れて泣きながら、お仕事……頑張ったよ」
いくら吐いても、堰を切ってあふれ出してくる言葉たち。
俺はそのすべてを受け止めたくて、円花の小さな肩を抱き寄せた。
「でも、もう限界だったんだ。
もう無理だなって。そう気づいたときには、変な笑いが出ちゃった。
きっと詩音さんも、こうして辞めていったのかなぁって。
プロデューサーにね、何度も辞めますって相談したの。
でも、どうしても考え直してくれって、はねつけられちゃった。
それでもどうにか、無理を押し通してね……わたしは今、ここにいるんだよ」
「……ああ」
すべてをさらけ出してくれる幼なじみの温かさが、胸につんと響いた。
「ほんとうにごめんね、悠くん。
これは最初から最後までぜーんぶ、わたしのわがままなんだ。
お別れが怖くて、何も言わずにこの土地を発って。
そのくせ、東京ではずっと悠くんのことばっかり考えたりして。
挙句には、こんなふうに戻ってきて。
今はこうして、優しい悠くんの胸に甘えたりして」
「……いや」
口をついて出た言葉は、自分でも呆れるくらい陳腐なもので。
でもそれ以外に、体のいい言葉を探し切れなかった。
「間違ってなかったよ、お前は」
「…………そうなのかな?
ねえ悠くん、ほんとうにそう?
わたし、ほんとうに……間違えて、なかったのかな……?」
その声が、わずかに震えているように思えた。
こみ上げてくる感情が、万が一にも俺の制服を濡らすことのないように……だろうか。
円花はぎゅっと、両の目をつぶったままでいた。
「何度でも言ってやる。お前は間違ってない」
「……うん」
「そしてこれから、お前が挑戦することも……自分のやりたいことを、ドル研で見つめ直すこともな」
「ん……、っ」
胸に押し付けられる力が、さらに強まった。
円花のほのかな体温が、以前にも増して感じられるようになる。
「……えへへ。ありがとね、悠くん」
まるで愛玩動物のように、ぐりぐりと頭を動かす円花。
まったく。ずいぶんと懐かれたものだ。
でも……無性に安心しきった、そんな自分がいた。
「ほれ。いつまで甘えてやがる」
ぐいと肩を押し返して、倒れ込んでいた円花の体勢を元に戻した。
「もう……。アイドルの身体に、気安く触れたらダメなんだよ?」
「お前が身体押し付けてきたんだろうが」
「ふふ。冗談じょうだんっ」
円花が軽やかに立ち上がる。それに合わせて、俺ものそりと腰を上げた。
「ねえ、悠くん?」
「なんだ」
円花はほっそりとした腕を後ろに組んで、いたずらな目線を向けてくる。
「あのね。その、アイドル研究部にいるときは、今までどおりに接してほしいかなー、なんて」
「じゃあ、お前も俺に敬語で話しかけるのか?」
「うんっ。あの場ならきっと、そのほうがしっくりくるかも」
「まあ、そうかもな」
なんとなく決まってしまっているのだ。
ドル研における円花のキャラクター。および、俺とこいつの絡み方などなど。
「でも、あれだな。呼び方だけは、ちゃんと変えなきゃな」
「こころさんと京太郎さん、ちょっとびっくりしちゃうかも……」
「大丈夫だろ。ああ見えて、俺たちのことよく分かってるから」
「悠くん、ほんとにいい人たちに恵まれたんだね」
「おかげさまでな」
「……あははっ。やっぱり、ちょっと揺らいじゃうなぁ……」
「……」
その言葉の真意にたどり着くよりも早く、円花がくるりとこちらを振り返る。
「もうご飯どきだし、そろそろ帰ろっか」
「……ああ、そうだな」
家までの帰り道はあとわずか。
生ぬるく香る夜の匂いは、この幸福な時間にも限りがあることを、俺たちに優しく教えてくれていた。
胸が詰まるような感情に浸されながら――、
俺はあと少しだけの帰り道を、幼なじみと一緒に歩いた。
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