第19話



 八月十三日。練習十日目。


 世間はこれから数日間の盆休みに入る。夢が丘高校は私立高のため、今日からしばらく完全休校になる。当然ながら立ち入りはできない。


 代わりに練習場所となるのは、高校からほど近い場所に位置する夢が丘公民館。いくつかの会議室と研修室を備えており、申請すれば誰でも利用することができる。

 鏡張りの一角もあるらしく、まさに練習にはおあつらえ向き……なのだが。


「重いな……」


 スピーカーとジュラルミンケースが積みあがった台車を、おそるおそる押しながら進む。


 前方では、音海が誘導係を担っていた。


「正面から自転車です」

「……了解」


 高価な機材が積みあがったそれを、俺はゆっくりと路傍に寄せた。


 学校以外で合同練習を行うとなれば、どうしても機材を移動させなければならない。しかも今は休校中のため、俺の家がもろもろの仮置き場と化してしまっている。

 家が近いと、それはそれで大変な不利益をこうむることもあるのだ。


 公民館までは、普通に歩けば十分と少しでたどり着けるはずなのだが……高価な機材を運搬する役目を負った以上、時間と神経を多分に消費しなければならない。


「悠くん……大丈夫ですか?」


 心配そうに音海が訊いてくる。だがここで「大丈夫じゃないから代わってくれ」なんて口が裂けても言えるはずがない。こういうのは俺の仕事だからだ。


「ああ、問題ない。音海は引き続き誘導を頼む」

「わ、分かりました」


 注意深く先行していく音海の背姿を見て、俺は小さくため息をついた。

 数日前、四条に言われた言葉がよみがえってくる。


 ――これは日常じゃなかとよ。円花ちゃんのための、日常のような非日常やけん。


 日常のような非日常。言いえて妙だ、と思う。

 音海と過ごしているこの日々は、確かに普通ではない。


 音海のために、普通を作り出している。……その言い方が適切かどうかは分からないが、俺はいつの間にか、そんな見せかけの日常に騙されていたのかもしれない。


 ……一週間前の光景を、俺はふと思い出す。


 二度と顔を合わせることはない。そんな幼なじみが、ある日突然、俺の前に姿を現した。


 にわかには信じられなかった。――俺はとっさに彼女を「音海」と呼んだ。

 呼んでしまった。


 思春期の四年間。その重要な時期に、離れ離れになってしまった心は、いざ実体として身体が近づいた瞬間に――猛烈な違和感を訴えた。


 だから、俺は。


 ――円花ちゃん、ずっと心配しとうよ? 『悠くんは、やっぱり許してくれないのかな』って。


 俺はべつに、怒りを覚えているわけじゃない。そこにも音海の誤解がある。


 あいまいな心の揺れ動きを差し置いて、俺はとりあえずの日々を送ろうとした。


 案外、なんとかなった。以前のようにとまではいかずとも、普通にコミュニケーションを取ることはできる。ドル研のいちメンバーとして、音海を仲間として、見ることができる。


 ……だけど。そんな俺のあいまいさにいち早く、気づいた奴がいた。


 ――このままじゃダメばい、ゆーくん。


 人を見る目があるというのは、四条みたいな人間のことを言うのだろう。


 そして、その気づきを遠慮なく当人に突き立てる勇気。


 四条こころという人間に、俺は心から感服する。それに比して、自分がいかに未熟な存在であるかを、改めて実感する。


 ハンドルを握りしめる拳に、俺はぐっと力を込めた。




 はじめての合同練習は、やはりと言うべきか……あまり上手くはいかなかった。


 それぞれのチームが、これまで励んできた練習の成果を見せる場。そのことを意識しすぎて、俺たちは互いに力が入りすぎていたようだ。


 とくに首尾よくいかないのは、俺たち音響組とアイドル組のかけ合いだ。


 音響はただ音楽を流せばいいというものではない。アイドルの登場シーン、MCタイム、そして歌唱パートと、それぞれ異なる音楽をかけている。MCのときは音量を絞る必要があるし、BGMの切り替えも、不自然にならないよう行わなければならない。


「なかなか難しいもんだな、これ」


 日暮が困った笑みを浮かべながら、フェーダーを微調整する。


 意外な部分に難しさが潜んでいる。これは、各自で練習を行っているだけでは気づきにくい。

 こうして合同練習の機会を設け、はじめて理解する難しさもあるのだ。


「さっきのとこ、もう一回よか?」

「お、おう……Aパートだよな。さっき設定したCUEポイントはこいつだっけか……」


 ぶつぶつと言いながら操作していた日暮。だが、


「――きょーた! ここはサビやんね!」

「悪い悪い、ちょっとミスっちまった」


 まだ操作に慣れていない俺たちは、いざ実践というとき、しばしば混乱してしまう。


 落ち着いて操作すればどうってことはない。だが、一部の機能しか理解していないPA卓やDJセットを目前にすると、心のどこかでひるんでしまう。


 ……そして、それはなにも俺たちばかりではない。


 曲に合わせてダンスを踊り出すアイドル組。

 音海が引っ張り、それに四条が追随していく形だ。しかしどうしても、動きのキレやタイミングの合わせ方にはっきりと実力差が浮き出てしまう。


 四条は初心者ということもあって、極力振りが少ないように調整されてはいるが……いかんせん、動作がやや遅れ気味になってしまう。


 振りを忘れたり、歌詞が飛んでしまったりするところも散見された。音海はほとんど完璧にこなしているが、それでもたまにミスをする。


「……ふぅ、また失敗ばい……」


 したたり落ちる汗を見つめながら、四条は両ひざに手をついた。


「……しばらく、休憩しませんか。あんまり根を詰めても身体によくないですし」

「俺たちも、ちょっとクールダウンが必要みたいだぜ。な、堀川」 

「そうだな」


 こういうとき、上手くいかないからと闇雲に向き合い続けても、あまり収穫はない。


 時間を置くことで、経験値はある程度整理される。これまでできなかったことも、一晩おけば不思議と身についている……なんてことは、案外よくある話だ。

 広々とした研修室のまんなかで、俺たちは円を囲むように腰を下ろした。


 部室で集まっているときとは違う、独特の空気が流れている。


 同じ練習を経て、同じ休憩時間を共有している。これまでとは微妙にシチュエーションが異なっていて、だからこそ、話題の切り出し方にそれぞれが戸惑っていた。


「……そういえば、だけどよ」


 少し続いた沈黙を破ったのは、俺の隣にあぐらをかいた日暮だった。


「円花ちゃんて、どうしてアイドルやってみようって思ったんだ?」


 急にそんな質問を振られるとは思っていなかったのか、音海は目をぱちくりとさせた。


「あーいや、なんかさ。普段はなかなか訊くタイミングもねぇし、いい機会かなって」

「そうやね。あたしも聞いてみたか!」


 すぐに四条が乗ってくる。

 音海は自分から身の上話を語るタイプじゃない。こうして質問されなければ、ずっと己のことについて口を開くことはなかっただろう。


「そんなにたいした話じゃないですけど、それでもよければ」

「いやいや、こういう他人の話って、すげぇタメになったりするからな」

「そうばい。だって円花ちゃんは、ひと足もふた足も早くに、自分の夢ば叶えとるけんね!」


 その言葉が嬉しかったようで、音海はその柔らかそうな頬を少しだけ緩めた。

 一瞬だけ目を閉じて、記憶のなかにある自分に問いかけるように――音海は語り始める。


「わたしがアイドルを目指したきっかけは、詩音さんでした」


 一時は国民的な人気を誇ったアイドルグループ、【シスター・リリー】。

 そのセンターである天川詩音は、なかでもファンに好かれるキャラクターだった。


「その姿に憧れたのは、ほんとうに子供っぽい理由だったんです。テレビに映る詩音さんの姿が、ただただかっこよくて、可愛くて……気づけばわたしは、テレビの前で踊っていました。歌もフリも、真似するうちに自然と覚えてしまって。そうしたら――」


 当時の光景を思い出したのか、音海はくすりと笑った。


「パパとママが、わたしのことをすっごく褒めてくれて。『円花は将来、詩音ちゃんみたいなアイドルになるかもしれないな』って。今考えれば冗談だったのかもしれないですけど。


 そのとき、子供心ながらに決心したんです。

 わたしもアイドルになる。画面の向こうの詩音さんみたいに、たくさん笑顔を振りまいて、素敵な歌をテレビで歌うんだ……って」


 音海はすぅと息を吐いて、話を続ける。


「そのうち、小学校のクラスでもシスリリが流行り始めたんです。

 自分で言うのもおかしな話ですけど、わたしはすぐにクラスの人気者になりました。


 だって、誰よりも上手に、詩音さんの立ち振る舞いを真似することができたから。

 わたしがシスリリを、詩音さんを、アイドルのことを大好きに想う気持ち。それをただみんなの前で表現するだけで、わたしの周りにはたくさんのクラスメイトが集まってきました。

 それが嬉しくて、わたしはどんどん詩音さんに、アイドルに、傾倒していったんです」


 でも……と、音海は逆接の接続詞を繋いだ。


「みなさんの知るとおり、わたしたちが六年生だった夏に……シスリリは電撃解散してしまいました。

 その一報を聞いたとき、わたしはどうしようもなく立ちすくんでいました。


 なんで、なんで。どうして、どうしてって。

 答えをくれるわけもないパパとママに、わたしはひたすら訊いちゃったりして。

 あのとき、詩音さんに奪われた心は……どこかに消えて、なくなってしまった気がして」


 俺も四条も日暮も、しっとりとその話に耳を傾ける。


「解散から一か月もすると、わたしはクラスでも以前のような人気者ではなくなっていました。

 もう誰も、シスリリの話なんか、詩音さんの話なんか……アイドルの話なんか、してなくて。

 あれだけみんな夢中だったのに……もうみんな、すぐに忘れちゃって」


 流行り物は廃り物、ということわざがある。

 誰しもが理解していることだろう。


 いっときの熱に浮かされ、まるで奇跡にでも遭遇したかのような盛り上がりを見せたとしても――そこにあったはずの光は、いつの間にか音もなく消えてしまう。


「ぽっかりと空いた心に知らんぷりをして、わたしはそれからの毎日を送っていました。

 でもあるとき、ふと気づいたんです。

 たとえみんなが、シスリリのことを、詩音さんのことを忘れたとしても。


 ――わたしだけは、せめて、このわたしだけは。


 そこに確かにあった光を、絶対に忘れないでいよう、って。

 その気持ちは、今でも大切に、この胸のなかに埋めてあるんです。

 詩音さんのことだって、他の誰よりも覚えているつもりです。

 だって……わたしの心を持ち逃げしちゃった、正真正銘の泥棒さんですからね」


 いたずらっぽく頬をぷくりと膨らませながら、冗談めかした笑みをこぼした。


「『誰かの心を盗んでみせる』。そんなアイドルに、わたしもなってみたいんです!」


 勢いですっくと立ち上がった音海は……ハッと我に返った挙句、数秒の動作停止を挟んで「うーんっ」と精いっぱいの伸びをした。


 それはあまりにわざとらしい、バレバレな照れ隠し。

 その所作が面白くて、顔を示し合わせた俺たちはくすくすと笑い合った。


「……なな、なんですかっ⁉ 確かにちょっと、恥ずかしいこと言っちゃったかもしれないですけどっ……!」

「いやいやいや。マジで感銘を受けたぜ、円花ちゃん」

「うんっ。やっぱり円花ちゃん、すごかと思うし……なにより、がばい可愛かっ!」


「そそ、そんな、みんなして笑い合うことないじゃないですか⁉」

「いや、やっぱ円花ちゃん最高だわ」

「それ、どういう意味ですかっ⁉」


 耳たぶまでピンク色に染めて、音海はあわあわと日暮を詰問している。


「うんうんっ。そういうトコやんね!」


 ニマニマとした笑顔を浮かべて、四条も若干からかっているようだった。

 一瞬にして、和やかな空気に染まっていく研修室。


 俺もどこか穏やかな心境のままに、ワイワイ騒ぐ三人の姿を眺めていたのだった。


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