第16話



 すぐに立ち上がる。つとめて冷静さを失わないように、俺は落ち着いて日暮に指示を飛ばした。


「経口補水液と氷だ」

「任しとけ」


 言うやいなや、日暮は部室を飛び出していく。向かう先はもちろん、高校の隣にあるドラッグストア。


「ゆ、悠くんっ、わたしは、わたし……っ⁉」

「お前はここにいて、四条が横になれるだけのスペースを作れ。部室のドアは開けたままでな」


 ゆっくりとうなずく音海の、その繊細な指先が小刻みに震えている。


「いいか、まずは落ち着くんだ。深呼吸しろ。いざというときこそ冷静に」


 ぽんとその肩を叩き、俺はその場を後にした。

 もちろん全力疾走だ。例のあいつのように転ばないよう、足元に気を配りながら。


 高ぶる緊張感を、俺は大きな呼吸でやり過ごす。


 音海は軽くパニック状態になっていたから、四条の容態を聞き出すことができなかった。後はもう、自分で見て確かめるしかない。はやる心をどうにか、なだめすかす。


「四条ッ! 大丈夫か⁉」


 四階まで駆け昇り、廊下を一望する。

 ちょうど中間点のあたりで、四条はぺたりと座り込んでいた。


 廊下に向かって、首ががくんと落ち込んでいる。


 背後から追いついた俺は、今にもくずおれそうな肩に手を回す。

 じくりと、水分を吸ったスポーツウェアの感触。

 四条の顔は赤く、全体から発汗していた。どこか目はうつろで、焦点は俺をとらえていない。


 典型的な熱中症の症状だ。


「具合が悪いのか? 水は飲めるか?」

「……ん……ぼぉってして……足が……」

「足……?」


 肉付きのいい四条の太ももが、ぴくぴくと痙攣していることに気づく。


「だ、だいじょうぶ、ばい……ちょっとゆっくりしたら、なおるけん……」

「ここでは駄目だ。涼しい場所で休むぞ」


 四条は自分で動けない。日暮が到着するまでそれほど時間はかからないだろうが、熱中症は時間との闘いでもある。空調の効いていないこんな場所で、しかも発汗が止まらない四条を休ませるのは危険だ。


 これ以上の脱水が起これば、嘔吐症状、全身の痙攣から意識を失うことにもなりかねない。

 即座に判断し、俺はためらいなく四条の手を取った。


「……、ぇ……?」


 湿りを帯びた右手を、俺の右肩のほうへと回す。四条が背中に乗りやすいよう、なるべく低い位置にしゃがみ込む。


「身体を預けろ」

「……そがんと……せんでも、よか……」

「よくねえよ。……嫌な気持ちも分かるが、今はそれどころじゃない」

「……っ、うぅ…………」


 四条はそれで観念したのか、倒れ込むような形で、俺の背中へ身をゆだねた。


「立つからな」


 あまり鍛えていない下半身の筋肉に、俺はここ一番のムチを入れた。

 四条の太ももの柔らかい部分に、すべての指先が食い込んでいく。


 熱を帯びた吐息、火照った四条の顔、どうしても押しつけざるをえない胸の感触。

 充分すぎるほどに水を吸い込んだトレーニングウェアが、体温とあまり変わらない温度で俺の首筋に触れてくる。


「……う……」

「我慢してくれ。すぐに下ろしてやるから」


 甘酸っぱいシトラスの制汗剤が、ふわりと漂ってくる。

 少し思うところがあるのか、四条はなるべく俺の背中から上半身を浮かそうとした。


「もうすぐだ。すぐに横にしてやる」


 俺は全身の神経を視界に集中させる。ただでさえバランスが取りにくい。足を滑らせれば、二人ともただでは済まない。


「……っ、はぁ……っ」

「大丈夫だ。もう着く。涼しい部室に着くぞ」


 自分を励ましているのか、四条を励ましているのか。あるいはそのどちらともなのか。


 既に重くなりかけていた足をなんとか踏ん張って、俺たちは無事に部室へとたどり着く。


 音海が開けておいてくれたスペースに、慎重に四条の四肢を横たえた。


「こころさん、しっかり……っ!」


 目に涙の粒をためながら、音海はせめてもの償いをするように、一生懸命にうちわで風を送る。その隣、俺もすぐに加勢した。


 四条の汗が引いていくのは見て取るように分かった。呼吸音はものの数分で落ち着きを見せ始める。


 まもなく、経口補水液と氷を袋に詰めた日暮が戻ってきた。


「まずはこいつだろ」


 ほれ、と日暮が経口補水液を投げて渡す。こう見えて、なかなか聡明なところがあるのが憎めない。


「センキュ。……四条、少し頭を持ち上げられるか?」


 四条は少し身体をひねり、わずかに顔を持ち上げる。


「少しこぼしてもいいから、ゆっくりと飲め」

「ん……」


 ペットボトルの飲み口をあてがってやる。口元がおぼつかないが、きちんと飲み込めているようだ。


「吐き気はないか?」

「……うん……だいじょうぶ……ばい」

「音海。タオルあるだろ。ある分使って、氷をくるんでくれ」

「わ、分かりました」

「円花ちゃん、うちわ役代わるぜ」

「は、はいっ。お願いします」


 音海も少しは落ち着いただろうか、てきぱきと氷を取り出し、数枚のタオルに手際よくくるんでいく。


「できました」

「よし。一つは顔に当てて、後の二つは脇に挟んでおけ。それとほら、氷。舐めてるだけでも違うぞ」


 ぱりっと冷えた氷を、俺はそっと四条の唇に押し当ててやる。


「ん……はっ、はむっ……」


 氷を口に含んだとたん、四条の表情はまたたく間に穏やかになっていく。


「……ほんとばい。だいぶ……よくなってきた気がするとよ」


 もう二口ばかり経口補水液を飲むと、四条はすっかり安心したようで、気づけば静かな寝息を立て始めていたのだった。


 とりあえずこれで安心だろう。夕方まで安静にしておけば、一人でも歩いて帰れるはずだ。


「……よかった」


 心底ほっとしたように、音海は緊迫感を緩める。


「でも、ごめんなさい、こころさん……わたしが無理を押し付けてしまって、こんなことに」


 重責を感じているらしい。一定のペースでうちわを仰ぐ手は止めず、風で浮かんだり、元に戻ったりする四条の前髪のあたりを、ずっと申し訳なさそうに見つめている。


「円花ちゃんが悪い、ってことでもないと思うぜ」

「えっ?」


 なぜかこういうシーンでは空気を掴むのが上手い日暮は、微笑を浮かべながら言う。


「誰も悪くない。だが、全員に責任はある……だろ?」

「そうだな。四条は自分の体調のことだから、もっと早く不調を申し出るべきだった。音海はもう少し目を配るべきだった。俺たちは言わずもがな」

「まったくだぜ。女の子ふたりが暑いなか運動してるっつーのに、こちとら冷房効いた部屋で呑気にMIX談義だかんな」


 それはお前が一人で語っていただけだと言いたいが、いずれにしろ俺の落ち度は変わらない。


 知らず知らずのうちに線引きしていた。

 この時間帯は、あいつらとは無関係なのだと。


 俺たちが自由な時間配分で練習をするように、向こうも上手くやってくれるだろう、と。


 その緩慢さが、今回のような事態を引き起こしてしまった。

 そういう意味では、部室にいた俺たちにも重い責任がある。


 音海は四条のそばに腰を下ろしたまま、かわるがわるに俺たちを見上げた。


「……ありがとうございます。京太郎さん、悠くん。二人のおかげです。わたしひとりでは、どうすることもできませんでした」

「でも、すぐに四条の異変に気付いて、助けを呼びに来たのは音海だろ」

「それは……そう、ですけど……」


 その口元が強く結ばれる。


 あの頃と変わらず、責任感が人一倍強い奴だ。自分が何もできなかった、何もしてやれなかったと……そう認識しているのだろう。


「それでも円花ちゃんは、最善のことをやってくれたと思うぜ」

「そのとおりだ。急いで助けを呼びに来てくれたから、このくらいで済んだ」


 実際、四条は意識が混濁し始めていた。もう少し処置が遅れていれば、すぐに症状の程度が悪化する段階まで来ていたのだ。


「こうなっちまったのは、みんなの責任だけどさ。逆にみんなのおかげで乗り切った……ってことで、いいんじゃねぇかな?」


 にこやかに笑いかける日暮。


 その言葉に、わずかでも心が軽くなったのだろうか。ほんのわずかに、音海はこくりとうなずきを返したのだった。

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