第15話



 八月六日。練習三日目。


 気が早いかもしれないが、非日常が再び日常へと変わりつつあった。


 音海と歩調を合わせて校門をくぐり、遠くに女子テニス部の掛け声を聴きながら、人気のない校舎へと足を踏み入れる。


 持参の上履きを履いて、とんとんっとリノリウムの床でつま先を叩く音海の姿も、そろそろ見慣れつつある光景だった。


 いつもどおりのルートで部室に向かっていると、ひとりの女子生徒が向かいから歩いてくる。

 彼女がちらり、と俺たちの顔を覗いた瞬間のことだった。


「――ってっ、ふぎゃあっ⁉」


 びたーん! という音とともに、彼女はなにもない廊下で盛大にずっこける。

 硬質な音が転がっていく。その手にあったスマホが、転倒の勢いで前方に放り出されたのだ。


「だ、大丈夫ですかっ⁉」


 慌てた音海が女子生徒のそばにしゃがみ込む。反射的に俺は眉をひそめるが、こうなっては仕方がない。素直に転がったスマホのほうを拾ってやる。やたらとカバーが分厚かった。


「あいたたた……あ、あははは。すみません、ひなた、おっちょこちょいなもので……」


 癖のかかった長髪をなでつけながら、ひなた、と名乗る少女は照れくさそうに目を細めた。


 衝撃で脱げかかったスリッパの色は赤。一年生だ。


 音海よりも体格的には少し大きいくらいだろう。子供っぽいあどけなさの残る目元を、猫みたいな手でくしくしとこすっている。


「ほれ。頑丈なケースつけててよかったな」


 落としたスマホを渡す。


「あ、ありがとうございます。センパイ」


 向こうもスリッパの色で、こちらが上級生であることを認識したらしい。


 嫌な予感が脳裏をかすめるが、彼女はとくだん意に介していないようだ。

 画面にひびがないことを確認すると、ひなたという生徒は安堵のため息をこぼした。


「ひなた、しょっちゅう転んじゃうんですよ~。だからスマホも装甲ガチガチにしないと、すぐ壊れちゃって」

「地球上でこれだけ平坦なところもないと思うが」

「転ぶ原因は石ころとか凹凸とかじゃないんですよ?」

「じゃあ、なんだ」


 人差し指をくちびるに当てて、彼女はころころとした声で言った。


「おっちょこちょいです♪」


 こういう手合いは相手にしてられん。


「どこか痛いところとかないですか? けっこう強くぶつけてたみたいだから……」

「や、このとおりですっ! とくに問題はないです!」


 ひなたとかいう女子生徒はすっくと立ちあがり、俺たちにうやうやしく首を垂れた。


「優しいセンパイたち、助けてくれてありがとうございました。ひなたはとても感激です! では、また!」


 裏表のない笑顔を振りまき、彼女はぱたぱたとどこから走り去っていった。


「……走ったら、また転んじゃいそうですね」


 ふわふわと宙に揺れる彼女の髪を見つめながら、心配そうに音海がつぶやく。

 びたーん! という音が曲がり角の向こうから聞こえてきたのは、その直後のことだった。




 この日もひととおり機材をいじくり回した結果、俺たちは当然のごとく暇をもてあそぶ時間帯へと移行していた。


 アイドル組と違い、音響組は時間に追われるということはない。技術的にも難しいことをするわけではないため、ひたすら正確さと迅速さを向上させていくことになる。


 とはいえ、基本は同じことの繰り返しだ。どうしてもダレてきてしまう。


 午後の練習開始から二時間も経つと、俺たちはそれぞれ勝手に時間を潰し始めていた。……俺はつれづれなるままに、硯に向かう要領で日暮のほうを見向く。


「なにしてんだ、さっきから」


 ルーズリーフにひたすら文字を書きつけている。その様子は真剣そのもの。


「ああ。ちょっとMIXでも作ろうかと思ってな」

「……あれか。わけの分からん掛け声みたいなやつか」

「アイドル界隈にいるなら常識だろ。歴史もあるし、なかなかどうしてコイツは奥が深ぇんだよなぁ」


 MIXは確か、地下アイドルを中心に浸透していった文化だ。

 曲のイントロや間奏など、ボーカルが入らない隙をつき、脈絡のない語感だけで選ばれた単語を叫ぶ行為だと認識している。


「あれはなにが楽しいんだ」

「楽しい楽しくないは置いておけ。MIXっつーのはな、アイドルから無類のパワーを受け取った俺たちが、己の根幹から湧き上がってくるパッションを解放するためにあるんだぜ」

「普通に歓声を送るのじゃ駄目なのか」

「それもひとつの手段。MIXはな、その場にいる戦友たちと高揚感を分かち合うのに最適ってワケよ。なぜなら、きちんとした型があるからな」


 日暮はさらさらと流れるような筆致でなにかをしたため、


「これがすべての基本となるアレ。そう、英語MIXだ」


 そこには、次のような不可解な文字列が。


  よっしゃー! 行くぞー! 

  タイガー! ファイヤー! サイバー! ファイバー! ダイバー! バイバー! 

  ジャージャー!

 

「怪文書かこれは?」

「とんでもねぇ。これこそが始祖であり原典だ。そしてこっちは日本語MIX」


  ジャージャー!

  虎! 火! 人造! 繊維! 海女! 振動! 化繊! 飛! 除去!


「そもそも最初のこれはなんだ。ジャージャー麺か?」

「アホか。さっきの英語MIXと対応させてみろ。それが答えになる」

「……英語と日本語が対応してるってことか」


 言葉をそのまま当てはめれば『化繊/飛/除去』=『ジャージャー』。


「まったくもって意味が分からん」

「つまりこうだ。『心の有るがままに【化】身し、本来【繊】細な心を/【飛】ばし/刹那に思ふがまま【除】き【去】る』――ドルオタに宿る崇高な心緒を、端的に表現したのが『ジャージャー』ちゅうモンなのよ」


 少しでも真面目に耳を傾けようとした俺がバカだった。


「ただし、MIXはしかるべき状況、現場で発動するのが鉄則だ。場にそぐわなければ、即座にして単なる迷惑行為と化しちまうからな」

「お前、まさかそれ音海たちのライブで発動させる気じゃないだろうな」

「俺はそんなわきまえのないことはしねぇさ。カラオケで思う存分、楽しませてもらうけどな」

「それはそれで、お前の語るMIXの意義から外れているような気もするが」

「まぁな。要は騒いで楽しけりゃいいんだよ」


 結局それが答えか。

 呆れた俺が絶句しているところに、とたとたと足音が近づいてくる。


 ――俺たちは非常事態をすぐに察知した。


 乱暴にノブが動かされている。部室のドアは建付けが悪く、手順を踏まなければ上手く開けることができない。


「……円花ちゃんだ。様子がおかしい」

「すぐに開けてやってくれ」


 日暮が内側からドアを開けると、青ざめた顔の音海が立っていた。


「こ、こころさんが……こころさんがっ!」


 冷たい汗をかき、息も絶え絶えに、救いを求める目で訴えかけてくる。


「いきなりうずくまって、動けなく、なって……‼」

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