第7話



 家路の異なる四条たちと校門前で別れを告げ、俺と音海はまた二人きりとなった。


 どちらからともなく歩き出す。


 ジャージの入った紙袋を提げている音海は、普段よりわずかに歩く速度が遅いようだった。

 微妙にズレている歩幅のせいで、気を付けていないとすぐに先走りそうになる。


「……まさか、こうしてお前と下校する日が来るとはな」


 言ってから、俺は少し後悔する。なんとなく嫌味ったらしい言い方になってしまった。


「そ、そうですね……」


 夏の夕暮れに共鳴するような、響きのある声で音海は応じた。


 蒸し暑い夏風をはらんだ音海の制服の背中が、ぷっくりと張る。それを抑えようと、慌てて左手を背後に回す。そんな彼女の姿を見ていると、クラリと立ちくらみを覚えた。


 こういう日々が当たり前にある世界が、もしかしたらどこかにあったのかもしれない。


 その世界線を逃してしまった今だからこそ、俺は強く思うのだ。

 この日常をたぐり寄せることはできなかったのか。

 思い返せば思い返すほど、おごり高ぶっていた過去の自分にいら立ってくる。


 俺は音海に、『なにをしたいか』なんてこと、一度として訊いたことがなかったのだ。


 こいつはただ、俺のそばにいたいのだと思っていた。ありきたりでありふれた、いつもどおりの日常。俺がそれを望んでいたように、こいつも同じものを求めているのだ、と。


「……悪いな。なんかよそよそしいだろ、俺」

「い、いえ……わたしも、こんな感じですから……

 こんな会話をする幼なじみが、この世界のどこに存在するというのだろう。


 お互いのことを深くまで知り合った、唯一無二といっていいほどの存在なのに。

 近づきすぎた心が、なにかのきっかけで引きはがされてしまったとき――きちんとしたケアを施さなければ、二つの心は強い斥力をまとうことになる。ちょうど今の俺たちのように。


 ただ――完全に離れ切ってはいない。


 あのときほどではないにせよ、確かな引力は今もここにある。そんな気はしていた。


「まあ、なんだ。前みたいな笑顔が見れてよかったよ」

「……え?」

「お前、最初らへんは……なんというか、作り笑いが多かったんだよ。ほら、アイドルが握手会やらライブやらで多用するやつ」

「そ、そんな不自然でしたか?」

「いや、まったく不自然ではなかった」


 素人の引きつったような笑みとは似ても似つかない。アイドルの笑顔というのはそれだけでプロフェッショナルだ。


「ただやっぱり、昔のお前をよく知ってるからな」

「お見通しなんですね」

「そりゃそうだ」


 忘れたくても忘れられるものじゃない。


音海の柔らかい頬が少しだけ朱色に染まって、ぽっこりとしたえくぼが現れる。覗く前歯はいつ見たって、磨き上げられたように真っ白だ。


「いい部活だろ、ドル研」

「はい、とっても」


 心の奥をくすぐるような表情で、音海はやんわりと頬を緩めた。


 やがて家の前に到着すると、「あの、悠くんっ」と、音海が身体ごとこちらを向いた。


「わたしのわがままを受け入れてくれて……その、ありがとうございますっ」


 さらさらとした前髪がめくれ上がるような勢いで、音海は深々と頭を下げる。


「感謝なら、あいつらにしてやってくれ。……また明日な」

「あ……」


 なにか言いかけようとした音海だったが、


「はい。また、明日ですねっ」


 少しぎこちない笑顔とともに、音海は俺がドアを閉めるまで見守ってくれた。

 がちゃり、とドアが閉まる。


「……どこまでもアイドル、だな」


 ドアに背をあずけながら、俺は誰に聞かせるでもない独り言を、ぽつりとつぶやいた。

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