第5話
翌日。いろいろなことを考えあぐねた末、俺は音海家の前に立っていた。
ドル研の集合時間は日によってまちまちだが、今日は午後一時に設定されている。
いつも現地集合なので、俺なんかは待ち合わせの十五分前に家を出れば充分だ。
つまり家が近い音海についても同じことが言える。
もっともあいつは遅刻を嫌うので、さらにその十分前、つまり二十五分前には家を出るだろう……ということを見越して、結果俺は集合時間の三十分前に玄関をくぐることとなった。
じりじりと肌を焦がすような日差しにしばらく耐えていると、予想どおり音海家のドアが開いた。
見慣れない高校のジャージに身を包んでいる。俺たちは当然制服なので、ひとり私服を着ていくことに抵抗があったのかもしれない。
「よう」
声をかけると、音海はようやく俺の存在に気づいたらしかった。
「ゆ、悠くん……? あの、えっと……」
俺が待っていたことに動揺したらしく、あわあわと視線をせわしなく動かしている。
「昨日はお前がうちの前で立ってただろ」
「そ、それはそうですけど……それとこれとは違うというか、なんというか」
「その格好で校内ウロついたら怪しまれるだろ。俺が隣にいれば、最悪言い訳も効くだろうし」
「…………」
「とりあえず、行くぞ」
そう促して、俺たちはぎこちない足取りで、それほど遠くない通学路を歩み始める。
肩がくっつくほどの距離感……では、もちろんない。出会ったときの、まだお互いを計りかねている段階みたいだ。本来ならば、ふとしたときに肩が触れ合ったとしても笑い合えるような……そんな関係のはずだったんだが。
「……」
不思議な感覚だった。懐かしいようで、どこか初々しい。何度も乗り越えたシチュエーションのはずなのに、なにかが決定的に噛み合っていない。
音海はその端正なくちびるをきゅっと閉じたままでいた。
俺はハンカチで首筋の汗を拭きながら、なんともなしに話しかける。
「そういや、久々に実家の飯、食っただろ」
「……はい」
「どうだった?」
「美味しかったです。いつもは寮の食堂か、コンビニのおにぎりばかりなので……」
「そうか」
「……」
当たり障りのないことを訊いても、その答えに意味はない。ただ、少しでも会話のきっかけになることを期待したが……そう簡単なものでもないか。
意を決し、踏み込んだ質問を投げかけてみる。
「東京にはいつ帰るつもりだ?」
「……」
「無理に今答えなくてもいい。いろいろ考えがあるんだろ」
「……あ、あのっ」
ぱっつんの前髪がちらりと揺れて、上目遣いの視線が俺に向けられる。
その動きが、声の張り方が、やっぱりあの頃とそっくりで……はるか昔の情景を、俺は無意識にオーバーラップしてしまう。
いつになってもその可愛さは本物だな、と思った。
「なんだ?」
「……悠くん、今のわたしを見て、やっぱり……がっかり、してますよね」
「少なくとも、以前のお前じゃないな」
思ったとおりのことを口にする。
本来のこいつなら、今この瞬間にでも……自分が言いたいことを、やりたいことを、伝えたいことを、すべて自分だけの力で、表現することができていたただろうから。
「俺なんかじゃ想像もつかないけど。いろいろあったんだろ」
こうなってしまったのも、きっとこいつの責任だけではないはずで。
だからこそ大切なのは、こいつのそばに寄り添ってやることなのだと思う。とはいえ、俺自身が距離感を計りあぐねている節はあるが……。
「とりあえず、今はリフレッシュが先だろ。込み合った話はおいおい、な」
そう言ってやると、心なしか音海の表情が柔らかくなった気がする。
「……ありがとう、ございます」
「気にすんな。……ほら、もう着いたぞ」
夏休み期間中はさすがに人気も少ないが、それでもトレーニングウェアを身に着けた学生などかちらほら校門を出入りしている。
「だ、大丈夫でしょうか」
「堂々としてろ。運悪く先生と鉢合わせても、適当に誤魔化してやる」
とは言ってみたものの、実際まったく心配する必要はなかった。
すれ違う生徒はそれなりにいたが、こちらの様子には目もくれない。どうやら、ただの部活生としか思われていないようだ。そのうえ隣にはきちんと制服を着た俺がいるわけで、そうそう怪しまれるはずもない。
下駄箱で校内用のスリッパに履き替える。音海はこれも高校のものを持ってきたらしい、真っ白な上履きだった。
「ぜんぜん形状が違いますね……」
「スリッパがぼろぼろになったから、代わりに履いてますとでも言えばいい」
音海はなんだか不服そうだった。こいつ自身は物持ちがめちゃくちゃ良いのだ。
「こっちだ」
昇降口の大階段を昇り、二階にある文化系部室棟へ。ほとんど同じ間取りの部室が七つ、ずらりと並んでいる。
手前から四番目のドアに手をかける。上方向に少し持ち上げるようにしてから、右肩を入れるようにドアを押すと、がちゃりと音を立てて扉が開いた。
「鍵かけてないんですか⁉」
「このドア、建付け悪くてな。今の開け方を知らないと、開いたままでも施錠してるようなもんなんだよ」
「えぇ……」
「ま、入れよ」
「し、失礼します」
こわごわとした足取りで、ドル研の根城へと侵入する音海。
そして壁一面に広がるポスターの海を見て、ぽかんと口を開けたまま絶句。
「……なんですか、ここ……⁉」
「俺たちの部室だ」
一見カオスなように見えて、どこか統一性の取れた空間。
歴代の部員たちがせっせと収集し、オタク心に飾り立てていた品々の多くが、今もまだ当時のまま残っている。
「アイドル研究部、とは聞いてましたけど……がちなんですね」
「ちなみに、がちなのは先代たちな。俺らはこのへんのコレクションとかにはほとんど関わってないぞ。たまに模様替えしてるぐらいで」
「そ、そうなんですか」
音海は感心したように、CDラックから本棚、ところどころ痛んでいるポスターの一つひとつを眺めて回る。
「……あ、これって……!」
とりわけ目立つところに貼られていた一枚の宣材ポスター。音海はそれに強く目を惹きつけられたようだった。
【シスター・リリー】の硬質なロゴマークとともに、三人のアイドルたちが肩を寄せ合い、それぞれがカメラを見上げている構図。真っ白な背景部分には、まだ筆跡がおぼつかない三人分のサインが記されていた。
「もしかして、このサインって……」
「ああ、本物だ。シスリリメンバー直筆のな」
「どど、どうやってこんなの手に入れたんですかっ⁉」
目をくるくるとさせながら訊いてきた。珍しく気が動転しているらしい。
「手に入れたっていうか、向こうが勝手に送ってきたんだろ」
「……は……?」
理解が追い付かないのか、音海はきょとんとはてなを浮かべている。
「シスリリのセンター、天川詩音が佐賀出身なのは知ってるだろ」
「それは、まあ……わたしにとっての憧れでしたから」
「この部活を創設したのが彼女だ」
「…………」
みるみるうちに音海の目がまんまるになっていく。
「えええっ、そ、そうなんですかっ⁉」
「あんまり知られてない話だけどな。俺も高校に入るまでは知らなかったし」
俺が天川詩音の高校時代を知っているのも、それが夢が丘高校の伝説として語り継がれているからに他ならない。当然ながら、彼女がドル研として活動しているところを直接見たわけでもないが……状況証拠的にも、天川詩音=ドル研の創始者でほぼ間違いない。
「このドル研も、最初は純粋にアイドル活動をしていたそうだがな。天川詩音が卒業してからは、部員もまたたく間に減っていったらしい。今となっては、よく分からんドルオタ二人と俺だけだ」
定位置に腰かけた俺のことを、音海は複雑な表情で見つめてくる。
「……悠くんは、どうしてここに入部したんですか?」
「とくに目的もなく。一種の暇つぶしだな」
「……そう、ですか」
そうだ、と念押しに言おうかとも思ったが、なぜか喉の奥で押しとどめてしまう。
再び気まずい沈黙が下りるよりも先に、俺は先手を打つ。
「そこの席、座っていいぞ。空席だからな」
「は、はい」
素直に音海が腰を下ろす。それと同時に、賑やかな足音たちが近づいてくるのを感じる。
正直これ以上は間を持たせられる気がしなかったので、俺は心底あいつらに感謝を捧げた。
「ん……あれ、開かんばい……?」
「下手くそじゃねぇか。貸してみ」
執拗にノブがガチャガチャと動かされる。お前も下手くそだ。
やがてひずんだ音とともに、いつものメンツが飛び込んできた。
「わ、もう二人ともおるやんね!」
「だから言ったろ? 堀川たち家近いからもう来てるってよぉ」
挨拶代わりのやり取りを交わし合う四条&日暮。これまでの空気感をまるごと払拭するような異分子二人である。
「円花ちゃん、昨日ぶりばい! はいこれ、うちのお姉ちゃんのおさがり!」
「え? これは……?」
唐突に紙袋を渡されて、音海はしどろもどろになっていた。
「うちの高校の夏服ばい♪ こい着とけば、ぜんぜん違和感なかと!」
「しかしよ四条。お前の姉貴のおさがりってことはつまり……ちょいと大きいんじゃねぇの?」
「やってみらんと分からんばいっ。さっそく更衣室へレッツゴー!」
「へっ⁉ あ、あの、わたし……」
「いいからいいから~っ♪」
ニコニコ笑顔の四条に背中を押されて、音海はいったん部室の外へと消えていった。
「ウキウキだったな、あいつ」
「そりゃお前、あんな美少女アイドルに自分の高校の制服着させるんだぜ?」
「お前もウキウキしてんな」
「そりゃそうよ。ただまあ、『最適解』でないのが悔やまれるぜ」
くっと拳を握りしめ、虚空に向かって目を細める日暮。
「なにがだ」
「そりゃ制服が、だ。あれは体型に合ったサイズを着こなすことで、シワの陰影、適度なハリ、腹チラといったとんでもない化学反応を生み出すもんだかんな。オーバーサイズなど邪道! 断じて許容することはできねぇ!」
知るか。そもそもお前、二次元専じゃなかったのか?
くだらない会話をしばらく交わしていると、ようやく二人が更衣室から戻ってきた。
「じゃーんっ! 夢が丘バージョンの円花ちゃん誕生ばいっ! どがんねどがんね⁉」
音海の小さな肩に手を置いて、四条はこれ見よがしに言った。
真っ白なシャツに、胸元には赤いリボンが垂れている。紺色のスカートから伸びる足はとんでもなく細くて色白だ。スリッパではなくて純白の上履きなのも、かなり相乗効果を生み出しているように思える。
「わ、あのこれ、ちょっと、大きすぎないですか……?」
「大丈夫ばい! ちょっとオーバーサイズくらいのほうが、可愛く見えるけんね!」
確かにサイズ感はゆったり目だ。しかし日暮が危惧したほどのミスマッチ感はない。むしろどことなく残るあどげなさが強調されている。
「なるほどな……こいつぁ素晴らしい。なあ堀川?」
流れるような手のひら返し。今度からこいつが語る理論には一切耳を傾けないことにしよう。
「にしても、やっぱい可愛かね~! ぱっつんショートもピッタリばい!」
「い、いえ。そんなことは……」
謙遜する音海だったが、褒められると素直に嬉しいようだった。
「ちょっと照れとうところも可愛かっ!」
お人形さんのような音海をちょこんと座らせてから、四条はいろいろな角度からそのいじらしさを再確認している。
その隣に座る日暮が、なにかを思い出したようにふと顔を上げた。
「そういや俺、昨日【シークレットシーク】調べたんだけどさ。円花ちゃんって、いつもはまさにアイドルって感じのロングヘアだよな?」
「はい……実はこれ、ちょっとした変装のつもりで」
「おー。有名税たい」
「そうそうバレないとは思いますけどね。念のためです」
……ほんとうにそうだろうか。音海はああ言っているが、俺は少し懸念している。
【シークレットシーク】――シクシクは、確かに誰もが知っているほどのアイドルユニットではない。だが、先日俺が観た売上ランキングでは、シクシクの最新シングルは週間3位にランクインしていた。初週2万8千枚という数字を見るに、かなりの「根強い」ファンがついているのは間違いない。
ここが佐賀という辺境の地であることを加味しても、「この顔にピンとくる」レベルのファンが潜んでいる可能性は充分にある。
「どうしたよ堀川、そんな難しい顔して」
「……いや、なんでもない」
目をそらした隙に、音海と少し視線が交差する。……なんだろうな。やはりすぐに以前のように、とはいかないものだ。
「なんね、ゆーくん。借りてきた猫みたいになっとるばい?」
「いつもそんな感じだろ」
「そうやっけ? ……あ、今からお茶淹れるばってん、円花ちゃんも飲むね?」
「それなら、せっかくですし……いただきますね」
音海はといえば、思いのほかこの空間にもなじんできている。俺はともかくとして、四条や日暮のノリにも柔軟に対応しているようだ。
人数分の嬉野茶が注がれ、四条の手によってそれぞれの席の前に置かれた。
「ありがとうございますっ」
「どういたしまして! ……円花ちゃんも、もっとくだけたってよかとよ? ここにいる間は、もうドル研の一員みたいなもんやし!」
「そうそう、もっとフランクにいこうぜ円花ちゃん。そもそも俺ら同学年だしなー」
「あー……」
力なく笑いながら。
音海は、とんでもないことを口にした。
「すみません……わたし、くだけ方を忘れちゃって、ですね。あはは……」
その後に流れる変な空気を取り払うように、慌てて言葉を重ねた。
「いやあの、変な意味じゃなくってっ。ただその、やっぱりユニット内でもわたしが一番年下だし、芸能界だと先輩や上司ばかりなので、目上の人と話す機会がとくに多かったって話で。後は……その、今までこういう高校生っぽいことをやったことがなかったっていうか、だからちょっと緊張して、こんな感じになっちゃってるところがあるというか……すみません」
「…………」
その場にいる全員が、しばらく言葉を失っていた。
そうか。こいつが敬語で話している理由。どことなく一線を引いているような、妙な違和感。それはつまり――。
俺なりにかみ砕いた音海の発言を、慎重に口にする。
「普通の高校生活を知らない。だから俺たちとの打ち解け方も、よく分からないってことか」
「……そうですね。そうだと……思います」
肯定とともに、音海の口元が自嘲気味に曲げられた。
そのとき。
「――もし、もしもね。そうやとしても」
「え……っ⁉」
素っ頓狂な音海の声がする。
四条はいつの間にか背後に回り、その豊満な胸で、音海の上半身を優しく抱き留めていた。
「今だけは、ちょっとアイドルお休みしたらよか。普通の女の子に戻って、普通の高校生っぽいことばしてさ。それが円花ちゃんの望む普通かどうかは、分からんけど……」
少しだけ間を置いて、四条は柔らかな言葉を紡ぐ。
「難しいことなんて、今は忘れてもよかと。円花ちゃんには、そういう時間も必要ばい」
「ああ。俺たちのほうもなに一つ、難しいことをするつもりはねぇ。だろ? 堀川」
「……そうだな」
普通のことを、普通に……か。
俺たちみたいな田舎の高校生と、都会でアイドルやってきた音海と。
なにもかもが違うものだと考えていた。
常識も、生活も、それこそ日常そのものが。
だけど今――四条の腕のなかで、大粒の涙を浮かべている音海を見たとき。
その認識は間違っていたのかもしれないと、俺は強く思った。
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