3. 天啓
夏休みに入り、今日は天文部の天体観測会だ。
夕方4時ごろ帳学園高校正門に集合し、そこからバスに機材を運び入れて出発。
たどり着いたのは、黒曜山頂近くの広い原っぱの中にたたずむ宿だった。
夜に備えて夕食と仮眠を兼ねた休憩をとったあと、いよいよ活動開始だ。
今回の主たる目的は、ペルセウス座流星群の観測と撮影。
8月のこの時期に、一時間に三十個から六十個の流れ星が一気に夜空を埋め尽くす。
アンドロメダ姫を救った騎士、ペルセウスがもとになったペルセウス座の流星群。非常に心惹かれる、楽しみにしていた一大イベント。
の、はずだったんだけど。
きょろきょろと視線が周囲をさまよっているのを認めて、あたしはかすかにため息をついた。
無意識に探してしまうのはやはり――彼。
あれから裏庭に行っても一度も姿を見かけないまま、とうとう夏休みに入ってしまった。
そして、天文部活動日の今日も、待夜先輩は部長なのでなにかと忙しそうに動き回っていたことと、例の女子たちの無言の牽制もあって、話すタイミングがなかった。
もう、これからは、天体のことを教えてもらうわけじゃない。
でも、部活内で会っても一言も話してくれないなんて。
そんなことを想いながら宿の玄関で靴を履いているとき。
見慣れない観測用のジャージ姿に、ウェーブの髪とヴァイオレットグレイの瞳が横切った。
思わず呼びかけたあたしに、彼はやっぱり少し困った顔をしたけど、想いはとまらなかった。
「先輩、どうしてあたしのことを避けるんですか」
彼は顔をしかめたまま、なにも言わない。
「たしかに、今までさんざん天体のことを教えてもらっておいて、その道をあきらめるとか、あたしのしたことはかってだと思います」
ほんとうにごめんなさいと頭をさげても、彼は以前のように笑ってくれない。
「でも、だからってこんなふうに無視するなんて。先輩もひどい。ひどいです……!」
ああ、最悪だ。
部活にきた宿でなにを泣きついているんだ、あたしは。
第一こんなところほかの部員に見られたらどうする。
ふだんなら頭に浮かぶそんなことすら、浮かばなかった。
「生まれてはじめて……ぐすっ、人を好きになって。でもこんなんじゃ」
今のあたしには涙だけ。
勢い告白をしたことにすら、気づかない。
ヴァイオレットの瞳が一瞬、動揺に揺れたことも。
「こんなんじゃ、つらいです。……こんな気持ちなら、ないほうが」
このまま身体ごと涙といっしょにながされてしまいたい。そんなふうに思ったとき。
すくいあげるように、顎が持ち上げられた。
射抜くように見つめてくるのは、見たこともないほど冷たく、厳しい、ヴァイオレットグレイの瞳。
「なら、なくしてあげましょうか。今すぐ」
その冷たい光を、目を見開いたまま、ただただ見返す。
「オレは非情なラヴァンパイアです。あなたの気持ちをかみくだくことなど、一瞬でできます」
その瞳が皮肉のように屈折した光を宿す。
「今まで何人もの人の心を食い物にしてきた。その妖怪の餌食になりますか」
杏さん、と低く耳元で呟かれたとき。
洪水のように目から涙があふれ出た。
「やだ……。やめて……っ!」
悲しいと思った。
あたしの恋心が食べられてしまうことがじゃない。
たぶん、不本意な、似合わないことを言っている、彼が。
そう思ったとき、あたしははっきりわかった。
どうして彼を好きになったのか。
いつも余裕があるふしをして、時々悪ぶって。
恋なんてギブアンドテイクなんて言ったりして。
でもほんとうの彼は。
あたしが落ちこむと誰より早くかけつけてくれた。
そして、空や星のたとえ話をしてあっという間に勇気づけてくれる。
誰にも言えなかった夢も理解して、応援してくれた。
ずっとずっと、きらめく星々が、太陽が、流星が夜空にするように、この心にそっと寄り添って、照らし出してくれていた。
そうするといつだって、思えた。
ここにいていい。
夢を持っていていいんだって。
クリスマスをひとりぼっちで過ごしてきた五宮さんの正直でひたむきな一面。ひそかに育ててきた、きれいな手芸品を生み出す力。
小鳥のぴいがピンチのとき、我がことのように悲しむ小春の優しさと、動物への想いを夢にして進んでいける強さ。
この人は女の子が持つ、一番きれいな部分にそっと呼びかける。
あなたはこんなにもきれいだって。
時に人に認めてもらえず、自分でも気がつけなくて深い森の中で震えている小さな花の露のような、儚いその場所に。
壊れないようにそっと。でも、美しさを告げるように、確かに。その触れ方は、彼女たちだけじゃなく、あたしの心も洗っていったんだ。
人の心の奥深くにふりそそぐ光。色はヴァイオレットグレイ。
光をたどったさきに鉱石を見つけた。
けれど発見の瞬間はなぜか心躍らない。
その石が、哀しそうに光っているから。
頭の中、きこえてきた、中低音の声。
『オレはたまに思います。なにも全人類の頭上で未来永劫光り輝くような偉大な星でなくていい。同じ時代に生きる誰かにとってのかすかな光にもし、なれるのなら――』
希望を語っているのに、底なし沼のように暗く悲しげだった瞳。
『どうして、そんなに悲しそうに語るんですか?』
あのとき、あたしはわからなかった。
でも今、消え入りそうな石の光が徐々にまばゆくなり、あたしの脳天を強く照らす。
彼は、叶うことのない希望を語っていたんだ。
先輩がキスして、恋心をなくせば同時に、彼女たちの中で、そんなふうに呼びかけてくれた彼の声が、行動が、ぜんぶなかったことになってしまう。
捕食対象とか言ってそのくせ、恋心を奪う代わり、女の子たちに大切な、かけがえのないものをちゃっかりと残していくラヴァンパイア。
でもこれじゃ、その当人は決して誰からも、愛されることはない。
愛されてとうぜんの優しさを持ちながら、誰からも。
ぎゅっと唇を結んだ。
ようやくわかった。
だからあたしは怒ってるんだ。
「せんぱい」
声の中心にあるのは不満。
「まちや、せんぱい」
周りを覆っているのは――どうしようもない痛み。
待夜先輩。
それって、あんまりじゃないですか。
天啓が降りるようにそう思ったときには、ぱっと、掴まれた顎を離されていた。
彼が低く、呟く。
「もう、こんなこと、たくさんだ……!」
吐き捨てるような声とともに、去って行く背中。
その背中に、その理由はある。
あたしは遠ざかる彼の後姿をただ茫然と見つめていた。
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