2. 「きみはそれでいいのか」

 ベッドに腰かけた待夜先輩は黙って保健室の窓から、運動場を見ていた。

 その顔はいつになく青白い。

 運動場でかけまわるほかの生徒たちを見る目が、切なげに細められていて。

 でも、その瞳はあたしをとらえると、すぐに笑みを浮かべた。

 言葉が、とっさにでてこない。

 でも、なにか言わなければ。

「あの。あたし。先輩が倒れたってきいて。その……」

 だいじょうぶですか。

 その一言すら言えない。

 自分には言う資格なんかない気がした。

 ゆっくりと先輩がこっちを向く。

「杏さん。ありがとう。わざわざ来てくれたんですね」

 そして、ちょっと照れたようにまた笑い、

「大したことは、ないんですよ」

 でも、その顔に力はない。

 長い間、恋心を食べていないって。

 知っていたはずなのに。それなのに。

 彼はテスト前、裏庭での講義を延長して、勉強を手伝ってくれていた。 

 無理させてしまっていたんだ。

 あたしが。

 ベッドの前で、深々と頭を下げる。

「あの。天体の講義、今までありがとうございました」

 ゆっくりと顔をあげると、待夜先輩の目が怪訝そうな色を帯びている。

 そして、あたしは、償いの言葉を吐いた。

 宇宙からの景色を、先輩に見せるって。

 約束したけれど。

 今だってとてもとても――そうしたいけれど。



「ごめんなさい。あたしやっぱり理系の進路に進むの、あきらめます」



 彼が発したのはたった一言。

 なぜ、というものだった。

「……とうさんもかあさんも、経営を勉強してお店を継いでほしいって思ってるし。友達も文系で同じクラスになりたいって言ってくれてるし。先輩にもこんなに負担かけちゃって」

 そう言う声にかすかに笑いが混じったのは、自嘲だ。

「みんなにとってそのほうが」

 ――あれ?

 目じりに熱い雫と、それを支えるようにぬぐう、指の感触があった。

 ベッドから、ぽろりとこぼれたあたしの涙をぬぐいながら、先輩はそっと言う。



「きみは、それでいいのか」



 優しく、涙をぬぐわれているのに、まるでそれがトリガーのように、次々に二粒目、三粒目が生まれ出てくる。


「だって……っく、みんなこのほうが」

「そんなことはきいてない」


 静止したままの指先が汚い涙で濡れるのもかまわずに、彼はなおも、問うてくる。


「きみが、それでいいのかときいているんだ」


 問いかけるアメジストの目の奥は、どこか苦しげで。

 あたしの胸を締め付ける。


「先輩にはっ、わかりません。努力がみんな実を結んで、みんなの憧れで。その先輩にあたっしの、気持ちなんて」


 泣きじゃくるあたしをまっすぐに見つめて――彼は言った。


「あぁ、わからない」


 かすかにそらした視線の中で、アメジストの光が最後のともしびのように、弱々しく揺れている。

「人の気持ちを見すぎて、自分が見えなくなるなんて。オレにはきみがまぶしすぎて時々、わからない」

 途方に暮れたようにぽつり呟かれた言葉が、鋭い水晶のようにぐさりと胸につきささる。

 とうとう先輩にも見捨てられちゃったんだ。

 あたりまえだ。

 自分勝手だった天罰がくだったんだ。

 せめて、謝ろう。

 そう思って、彼を見て――目をすがめた。

 ベッドのわきの大きな窓ガラス。

 それを彼は大きく目を見開いて、愕然としたように見ている。

 

「あっ――」

 思わず、声を上げた。

 そこに映っているのは、あたし一人。

 先輩の姿が、映っていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る