13. 約束したから

 紅狼さんがトマトジュースの飛び散った店内を片付け(魔力で一瞬にしてというのがなんだか腑におちないけど)あたしの肩を抱いて外へ連れ出し、先輩はむくっと起き上がってついてきて――そんな三名が、帳町公園のだだっぴろい芝生に入ったとき。



 先頭を歩いていた紅狼さんがくるりと振り返った。



「さてと。――お遊びはここまでだ」


 思わず、足を止める。

 彼の纏う雰囲気は、数分前とは違う。

 おおらかな笑みを消し、大きな瞳はひたと、あたしと待夜先輩に据えられ。


「冥都。最終確認だ」


 大きくはないのに、公園全体に通るような低い声で、紅狼さんは言った。


「杏ちゃんの夢、渡す気はねーんだな?」


 待夜先輩は、その瞳をすがめて答える。当然です、と。

 その眉間がかすかに苦みに歪んだ。


「オレは兄さんとは違う。一族とは別の、自分の意志があります」


 一音一音、くっきりと、彼が言葉を連ねていく。

 あたしは、息をするのも忘れた。


「人の恋を、大切な想いを失くすのが間違っているとわかれば、抵抗もします」


 そのヴァイオレットグレイの中に、なにかを、ずっしりと受け止めた跡が見えた気がして。

 きゅっと心が狭くなる。

 先輩――。

 

「――ほう」


 紅狼さんが、ふいに笑みを浮かべた。


 今日終始浮かべていたものとは別の色――夏の夕暮れ時の庭に降りる影のように、暗い笑みを。


「つまりそれは、こういうことか? お前の兄貴であるオレに意志はなくて、一番大切なものはラヴァンパイア一族だと」

 数秒の沈黙のあと、待夜先輩は口を開いた。

「時期統領としての義務も責任も、理解できます。――でも、一番大事にすべきはそれではない。それが、今のオレの意志です」

 先輩は苦しげに、顔を背ける。

「兄さんが第一に優先するのはいつも、ラヴァンパイア一族のことで――」


 ふっと、紅狼さんが一度、破顔した。

 少しだけ、目を瞠る。


 それは邪気のない、困ったような笑顔だった。



「――そりゃ違うぜ、冥都」


 一瞬遅れて先輩も瞳を大きくし、紅狼さんに向きなおる。


「親父や一族のやつらは、オレが杏ちゃんの夢を喰らってこいって命令した。この八重歯で確実にな」


 かすかに開いたその口元からは、おどろおどろしくその歯が光る。

 でも彼は笑っていた。


「だがほんとのとこオレは」


 どこか寂しげに。


「冥都。お前に杏ちゃんの夢を喰らわせるつもりだ」

 はっと気づいた時には、紅狼さんがあたしに向けて手を突き付けていた。


 ぐらり、視界が揺れる。


「――杏さん!」


 どさっと膝から頽れる。

 なに……これ。

 立てない。

 力が抜けて――禁断症状のように身体がだるくて、震える。胸が苦しい。

 先輩がかけよって、肩を支えてくれるのはかろうじてわかるけど、言葉を発することすらできない。



 淡々と語る紅狼さんの声が生産機械のように流れ、耳にすべり込んでくる。

「本屋でオレが出した三つ目の店員からお前が飛び退った距離はわずか5メートル足らず。洋食店でのトマトジュースには、ためしにほんの微量だけ魔力を吸うエキスを含ませてたんだが、それだけで倒れてたな。普段のお前ならあり得ない反応だ」

 空気が足りないと、肺全体が叫ぶようだ。

 苦しい。


「長い間、恋心を喰らってないんだろ。じっさい今、立ってるのもしんどいはずだ」



 その言葉が、この肺の中の空気を空にしたような錯覚を覚えた。

 立ってるのもしんどい?

 待夜先輩が?


 気づかなかった。

 どうして。

 先輩。


 あたしを抱きしめる彼に向かって手を伸ばそうとするのに、微動だにできないのが恨めしい。

 きっと、待夜先輩が紅狼さんに向きなおる。


 紅狼さんの目が、一瞬あたしに向けられた。

 哀しげな、紅い色。


「私怨はねえが、すまねぇな、杏ちゃん」


 そう言うと、その目を弟に向ける。

 残酷で、厳しい目を。


「さぁ、夢を喰らえ。冥都。一族の長老からの代理命令だ」


「お断りします」

 頑なに首を振り、先輩はぎゅっと、あたしを抱きしめる。


 紅狼さんは、途方に暮れたように吐息をついた。


「なぁ、もう意地はるのやめてくれ。兄ちゃんを困らせないでくれや」


 ぎりぎりと、紅狼さんが歯噛みする。


「でないとほんとに……死んじまうぞ、お前」


 その切なげな声に呼応するように、身体の震えが痙攣に変わる。



 わかったんだ。



 おにいさんが現れた理由。

 それは、弟である待夜先輩を心配している。

 その一心だったんだ……!


 あたしは、この身体を抱きしめるあたたかな感触に、たしかに酔いしれた。

 そんな余裕、ない状態のはずなのに。


 おにいさん、わかります。

 こんなに優しい彼を、大事に思うななんてほうが無理な話。


 そして、しびれる口をどうにか、開く。


「おにい、さ……ん」


 動かない表情筋をどうにか使って笑おうとした顔はひょっとしたら、福笑いのような顔になっているかもしれない。

 それでも。


「あたしの夢は、渡せません」



 力を振り絞り、右手を上げ、どうにか、待夜先輩の頬に触れる。


「せんぱいに、やくそくしたから。宇宙から見た地球を、世界の広さを見せるって。やくそく、したから……」


 紅狼さんの赤い瞳が、丸く、大きく見開かれた。


 そして苦しげに細められたと、彼は再びこちらに向かって手をかざす。


 ふいに力が抜け、がくんと首をもたげた。

 あたしの胸の前に、青い水晶のような玉が浮き上がる。


 これが、あたしの夢?

 あたしから離れていこうとしているの。


 愕然と目を見開いた待夜先輩が、すかさずその玉に向けて手をかざした。


「どこまで対抗できるか、わかりませんが」


 ゆっくりその水晶玉が、あたしに向かって動く――。


「ばか、時間逆行の魔法は、そうでなくても体力を消耗――」

 焦ったようなお兄さんの声にも、彼は動じなかった。

「兄が失礼しました。休んでください、杏さん」

 ヴァイオレットグレイの目は、いつもと変わらず、優しく。

「力不足で失態を。もうしわけありません」

 その瞳に対する答えは、一つ。



「だいじょうぶです。先輩は、生きられます」




 おにいさんに向けて、あたしは微笑む。

 急激に眠くなってくるのをこらえて。

 おにいさんも、先輩も。

 そろって、なにを言われているのかわからない――そんな表情をしていた。


「待夜先輩に、あげます。あたしの夢じゃなくて。あたしの――」


 彼の腕の中で、休ませる魔法をかけられて。


「いつか。……そう遠くない未来。必ず」


 眠りに落ちる直前のような、圧倒的な安心感が身体全体を覆ったとき。


「……そうかい、杏ちゃん」


 あたしは声をきいた。


 ぜんぜん違うようで、それでも、待夜先輩によく似た、やっぱり優しい声を。


「そこまでの覚悟もたれちゃ、しかたねーな」


 目を伏せた紅狼さんが、右手を降ろし、左手をかざした瞬間。

 眠りの波の中に、とうとうあたしは堕ちていった。

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