8. 夢は代金つき?
茶色いテーブルが並び、ほのかにきらめく照明。
広間の中心には自動ピアノがゆったりとクラシックの曲を奏でている。
なんでカフェに来ちゃったんだろう。
知らない人と。しかも男の人。
目の前に腰かけた紅目のおにいさんは、にかっと陽気に微笑んだ。
「オレ、
「あ。三朝杏です」
つられて、自己紹介しているのはなぜだ。
「今は大学生。帳学園大学に通ってる」
それって名門じゃないか。
「主な日課は、きみみたいに浮かない顔した女の子を元気づけることかな」
そして名門大学生のわりにうさんくさい。
これはプロフィール自体疑ってかかるべきなのか。いずひーおーらい?
「名門大学の学生ってほんとかなって思ってるっしょ?」
う。ばれた。
「よく意外って言われるけど、頭は悪くないんだなー、これが」
自分で言うところがさらにうさんくささ倍増のせりふを付けくわえ、
「――じっさい、落ち込んでたっしょ? さっき」
面白がるような瞳を見て、びりっと、小さなしびれのようなものが背筋に走った。
なにこれ? 静電気?
いや、今は夏。
戸惑いつつも、彼のその問いばかりは否定のしようがなく。
しかたなくうなずく。
――あ。
自動ピアノが奏でる曲が、変わった。
今度はアップテンポのミュージカル曲だ。
映画にもなったこの歌は知ってる。
タイトルはたしか、angel eyes とか言ったっけ。
英語の歌詞のぜんぶはききとれないけど、ミュージカル映画の字幕で流れていた日本語訳の詩の内容がなんとなく頭を巡る。
彼の天使の瞳 覗きこんだら そこは楽園
けれどある日気づくの 天使は仮装
見つめてはだめ 深みにはまってはだめ
「カレシとケンカでもした?」
――深みにはまってはだめ。
「カレシじゃないですけど。……大切な人と」
さらさらと、アールグレイの中溶けて消えていくシロップのように。
どうしてか言葉は抵抗なく、出ていく。
「ひどいこと、言っちゃって……。もう助けはいらないなんて。売り言葉に買い言葉だったとはいえ」
あぁあたし、誰かにきいてほしかったんだ。
つい先日、自覚したばかりの気持ちは、一人で持つにはあまりに大きすぎて。
――深みにはまってはだめ。
「先輩だからあたしは、夢を語ることができた。先輩はあたしの夢にそっと優しく息を吹き込むように、何倍にもふくらませてくれたんです」
今年度のはじめには、とほうもない物語だった夢。
今、ちょっとだけ背伸びして、指先で触れられたような気がしてる。
がんばって、がんばって。
翼がなくても飛び跳ねて行けば、いつかは手が届きそうな、そんな気がしてるんだ。
そしてそのときは、一番さいしょに、彼に伝えたい。
先輩、宇宙から見た景色はこんなでした。
こんなふうに思いましたって。
あのヴァイオレットグレイの瞳に――。
悩ましい歌詞に反して、踊っているようなキャッチ―なミュージカル・ナンバーの後奏がだんだん小さくなって、フェードアウトしていく。
ぽんと、頭のうえに手のひらの感触を感じた。
「さみしかったんだな、よしよし」
大きなてのひら。先輩とは違う、おおらかなぬくもり。
そう思って、動けなくなる。
「ちなみにさ、その夢ってなに?」
「……宇宙、飛行士」
「忘れちまえよ」
――え?
「今だけ」
大きな瞳が、ワインレッドに光る。
その言葉は決して受け入れることのできないもののはずなのに。
とても甘やかに聞こえる。
「杏ちゃん、って言ったね。壮大で、すっげーピュアな夢を持つあんたにはさ、もっとでっかい心を持ったやつが似合うよ」
何の話だろうと目を上げると、大きな目がぱちっとウインクを送ってくる。
「夢見るって、誰にでもできることじゃないんだぜ。叶わないんじゃないかっていう不安とか、今の努力じゃまだまだ足りないんじゃないかって焦り。夢にはそういう代金も支払わなくちゃなんねーんだ」
ふいにその大きな目が細められ、ぐんと、優しくなる。
「そういうのがつらくなるときって、ないか」
あ――。
たしかに、大きな夢までに登らなければならない階段は無尽蔵で。
気が遠くなる瞬間も、今までなかったわけじゃない。
「夢に向かって導いてくれる王子様もいいけど。夢がときどき苦しく感じるときなんかに、一時的に荷物を預かってくれる騎士。そんなやつが、杏ちゃんには似合いじゃないかな」
すっと肩に片手を回されて。
え。ちょっと待った。
紅狼さんの顔がすぐ近くにある。
近づいてくる。
なんで。
とっさに距離をとろうとするけど、身体が椅子にへばりついたかのようにびくともしない。
え。なんなの。
どうしたあたし――。
冷や汗がぶわっと噴き出たその瞬間だった。
がたん! と大きな音がして、目にも止まらぬ速さで、紅狼さんが数メートル横に飛び退った。
「ってー。あぶねーな」
首をさする紅狼さんのシャツに茶色い染み。傍らに倒れているのは、椅子?
勢いよくあたしの隣にあった椅子がひっくり返って、紅狼さんに襲い掛かり、はずみで紅狼さんが飲んでいたコーラが倒れた――らしい。
さんざんな目にあったにもかかわらず、獲物をみつけた狼のように唇をかすかに舐めて、紅狼さんは低い声で言った。
「シャツが濡れたじゃねーか。どうしてくれる?」
わっ。暗い笑みを宿しながら、ぎろっと睨まれた。
すごい迫力。
や、やばい。
どうする。
どうしよう。
けれどその視線は、絶賛パニック中のあたしじゃなく――あたしの背後に向けられていたらしい。
「オレの大事な杏さんの、なにより大切な夢を食い物にしようとしてくださった、そのお礼です」
「――っ」
聞き覚えのある、中低音の澄んだ丁寧語。
胸をわざつかせていた荒波が、海の帝王の一声を受けたかのように、静まる。
おそろしく、ほっとした。
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