2. 不都合な事実

 違和感は徐々に大きくなっていった。

 決定的になったのは今朝だ。

 うちは定食屋だから、登校するために家を出発するとき、厨房を通るんだけど。

 そこがいつにない静けさだったのだ。 

 いつもとうさんのくらだないギャグにかあさんがしょうもないわねって笑っている、お決まりの光景が、なかった。

 二人とも無心でご飯を炊いたりお刺身さばいたりしている。

 けんかしているのかなと思ってそれとなく尋ねても、まったくそんなことはないって言うんだよね。

 西校舎の前のデートの待ち合わせスポットも相変わらずガラガラだし。

 千佳もカレシに興味ないと言い続けてる。


「なんか、おかしいんです」


 裏庭にて。あたしが相談相手に選んだその人は、深刻そうに茂みの奥を見つめた。


「杏さんには無用なご心配をかけると思い、黙っていたのですが」

 言いづらそうに、彼はこう切り出した。


「ラヴァンパイア一族が活動を本格化したようです」


 近頃彼――待夜先輩が属するラヴァンパイア一族は、食糧飢饉――つまり、一定数の恋心が得られないことに悩んでいたらしい。


「昨日帳森に久しぶりに帰ったら、恋の泉ができていました」


「恋の、泉……?」


 おそるおそる、そのさきをきくと。

 彼はうろんげな瞳で茂みを見つめ、低い声で言う。


「この街にある恋心を一気に吸い取っている泉です。未来のラヴァンパイア一族の食料のために」


 氷の張った巨大な泉が、中心から砕ける様が、見えた気がした。


「――そんなのって」


 だから千佳も、とうさんとかあさんも、帳学園高校のカップルたちも?


 みんなが失くしつつあるっていうのか。

 誰かを好きという、気持ちを――。


「……ひどい」


 気づいたら口に出していた。


「ひどいです」


「ラヴァンパイアの一族も――先輩も」



 流れる細い血の糸のように。

 言葉が、とまらない。


「五宮さんも、小春も。先輩を好きになって、輝いていました」


 どこかでずっとつかえたように持っていた疑問の流れが、今決壊して、吹き荒れる。


「先輩にとって女の子の恋心は捕食対象なのかもしれない。でも、恋する気持ちが無意味なんていう権利はあるんですか」


 黙っている彼に、なおもたたみかける。


 恋。それは持っているから傷つくこともあるけど、すごく幸せにもなれて。


「その人がとても大切にしているかもしれないものをかってになくす権利なんて、たとえ好きになられた本人にしたって、ないんじゃないんですか」


 言いながらにじんでくる視界を隠すようにうつむく。

 わかっていた。

 先輩にそんなこと言ったってしかたがない。

 彼はそれを食べることでしか生きていけないのだから。


 彼にその言葉を言うことは、あたしたちに置き換えれば、ご飯を食べる権利なんてないと言われているのと同じだってことも。


 そう思うのに、とまらなかった。

 

「なんで。なんでそんなひどいことするの」


 彼の胸をぽかぽかとたたく。

 あたしの拳をそのままに、先輩がゆっくりと口を開く。



「杏さんの、おっしゃるとおりです」



 思わず、拳を止めた。


 え――?

 

「恋など非生産的で無意味なものだと、ずっと思ってきました。でも」


 挙げられたヴァイオレットグレイは。

 一筋の哀しみを宿している。


「あなたを見ていたら。常にまっすぐに誰かに向き合い、相手を想う杏さんを見ていたら、思いました。オレは今までずっと、重大なまちがいを犯してきたのかもしれないと」


「……」


 思ってもみなかった言葉に、返す言葉を奪われる。

 そのままただ見つめていると彼は、ふっと自嘲的に微笑んだ。


「あなたと出会わなければ、こんな不都合な事実に気づかずにすんだのに」


 物憂げで、優しい笑顔で。


 最後に先輩は言った。



「ほんとうに、困った方ですね、あなたは」

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