4. 甘くて苦いクヴェレ
ただいま、と扉を引くと、厨房で作業していた割烹着姿のかあさんがちょこっと振り向いた。
「杏。早く帰ってきたのね。夕飯はまだ? まかないの天丼があるわよ」
「今日はいいや」
すでに大量の豚汁が入っている大鍋に向きなおっていた背中がまたくるりと回転する。
「あらどうしたの。調子でも悪い?」
「そうじゃないけど」
ちょっと今、一人でいたいんだ。
ごめんね。
そう心で詫びて、一言だけ付け加える。
「明日からちゃんと食べるから」
住居スペースへと続く狭い階段を上る途中、厨房で和服に鉢巻姿のとうさんがいぶかしがる声がする。
「いったいどうしちまっただ? 大飯食らいのあの杏が」
「おとうさん。あの子も年頃だし。女の子にはそういうこともあるんですよ」
なだめるようなかあさんの声にかぶせて、はひ? というどこかまぬけなとうさんの声。
「だっ……ははは。あの杏にかぎってそんなことがありゃ、おりゃ、店にある定食ぜんぶかった食らったっていいな」
「杏もいつまでも子どもじゃないのよ。あと、ほんとに売り物の定食ぜんぶ食らったりしたら、即出ていきますからね」
「け。出てくにしても、杏は連れてくんじゃねーべ」
「まぁぁっ」
――心配かけちゃったかな。
今どき珍しく江戸っ子板前気質の父さんと、そんなとうさんをどんと支えてるかあさん。
中学高校と進学するにつれ、小さいときのようにいつでも話をするってわけではなくなってきたけど。
ほどよく距離を置いて見守ってくれるところは、こういうときにはほんとに助かる。
これは明日は、元気にならなくちゃならない。
だから今は。
二階にある自分の部屋のベッドにダイブして、ぎゅっと枕を握り締める。
そうしていないとなにかが胸からこぼれていってしまうような気持ち。
油断していると、視界が緩む。
先輩。
せんぱ、い。
きゅっと寂しくてとても甘くて。
幸せな気持ち。
ごろんと、ベッドの上で勢いよく転がる。
仰向けになると、くすんだ天井の壁が見えた。
そこにすらあのヴァイオレットグレイの瞳を見てしまう気がして、片手をぺしっと額にあてた。
あたし、ばかだ。
誰も好きにならないって明言したあの人を。
人の恋心を食らうラヴァンパイアの手に堕ちるもんかとか大見栄きっておいてこんなこと。
とくとくと泉のようにわき上がる甘さと苦さ。
気がついたときにはそのふしぎな想いはいっぱいになって、心のバスタブからあふれ出しそう。
校舎の窓からの落下を助けられたことにはじまって。
毎日昼休み返上で天体についてわかりやすく教えてくれて。
ファンクラブから逃走して派手に転べば足を気遣ってくれて。
宇宙飛行士になる夢を、希少なものだと真剣な目で言ってくれて。
ほんとは、優しくされるたびに。
ううん、あの人がほかの子に優しくするたびごとにも。
この場所にとくとくと、たまっていたんだ。
今日、アイスクリームをあえて溶かされたことは最後の布石にすぎない。
甘い気持ちが純水に溶けて見えなくなっている砂糖水。
暖かい炎で熱せられ、水が沸騰して。
そこに甘い砂糖の欠片たちが現れるのは自然の理―-つまり、とうぜんの結果。
甘いはずの透明の角砂糖たちがちくり、ちくりとその角であたしの心を刺していく。
心の中心にある気持ちの輪郭を教えるように。
ぎゅっと、ブラウスの上から、胸を掴んだ。
この気持ちを失くしたくない。
とても痛くて苦しいには違いないのに、いつまでも覚えていたい、そう思った。
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