3. 杏とアンドロメダ姫
夜空に描かれる代表的な星座となっているカシオペヤ座だけど、そのモデルになったエチオピアの王妃はわりと鼻もちならないところがあったらしい。自分たちの娘たちが美人だと自慢してやまず、ついには、人様の孫娘より美しいと、いらんことまで言ってしまった。その人様というのが偉大な海神ポセイドンだったから大変。怒った彼におばけクジラをエチオピアに送り込まれちゃうのだ。
そこで登場するのが、アンドロメダ姫。
アンドロメダ座は秋の夜空の大四辺形を形作り、その腰のあたりにはアンドロメダ座大銀河という、人気の天体を持つという華々しい地位を夜空に獲得しているだけあって、彼女の神話での役どころはなかなかかっこいいかつヒロインチックだ。村人の 危機を救うために自らいけにえになると名乗り出ちゃうんだ。
かといって、哀れ犠牲になったアンドロメダ姫は今でも夜空にさっそうと輝いていますと、悲劇に終わるわけでもなく、そこはお約束、ペガサスにまたがった王子が現れる。王子ペルセウスはおばけクジラを見事撃退。アンドロメダ姫とペルセウスは、めでたく結ばれたのでした。めでたしめでたし。
あたしは星座の神話図鑑から顔をあげて、ぐるりと首をまわした。
五月のゴールデンウィークが空けてはじめての天文学部活動日。その主たる内容は、夏休みの天体観測会の計画だ。
一年から三年まで、総勢30名ほどの部員たちで、黒曜山に天体観測に行くときのこと。
確認事項はそれほど多くなく、話し合いのあとは、各自天体についての自由学習。
あたしの意識は、観測会の計画の前にわずか数分ほどで済んでしまった、今年の新入生歓迎会の反省会にさかのぼる。
すぐに済んでしまったゆえんは、部長の待夜先輩のあいかわらずのそつのない進行と、そして、反省点がほぼないことにある。
そりゃそうだ。――空き教室に再現されたプラネタリウムの、あの完成度。
今でも、先月のあの光景がよみがえる。
待夜先輩ひきいる天文学部は、スリーディープロジェクトを使って教室一帯に星空と、神話の世界を再現してしまった。
幻想的に再現された、若い順に赤、緑、青と色を変える星々。土星の環、火星のおうとつ。
すごいらしいからと友達に連れられて、なんとなく入ったこの教室で、あたしは周りにほかの生徒も大勢いる中、あんぐりとまぬけに口を開けることになる。こんな別世界になるのかとただただ身の回りに訪れた宇宙に魅せられていた。
『宇宙には未だに、謎がたくさん残されています。はじまりはビックバンだと言われていますが、まだはっきりしたことは解明されていません』
待夜先輩があたしたちにしてくれた解説が、いまだに耳に残っている。
『近い将来、火星やほかの星に住むプロジェクトが進行しているように、その謎を解き明かすことは、みなさん一人一人の世界をぐっと広げることになるのかもしれません』
あのときの彼は、ちょっとすてきだった。
知的な眼鏡をかけて、語る口調もよどみなく。
天文部に入ったあとで学内有数のモテ男子だと知ったときも納得だった。
あたしに夜空の向こうに秘められた神秘と可能性を教えてくれた人。
ちょっと手は届かないけど、遠くから見つめていたい、正統派なかっこいい先輩。 そう思っていた。
そう。つい数日前までは。
「杏さんの名前も、そうですか」
「うぎゃぁっ」
肩越しにいきなり、想いを馳せていた本人の声がして、どう猛な爬虫類のような叫び声をあげてしまう。
「ご、ごめんなさい。え、へぇっと、なんでしらっけ?」
我ながらひどい発音だ。舌の長いカメレオンがどもったらこんな感じかな。
こちらこそ、おどろかせてすみません、と傍らに立っている待夜先輩は、斜め上から微笑んだ。
「その神話図鑑。杏さんの名前も、アンドロメダ姫からきているのかと思ったんです」
かすかに首をかしげた彼の背後から、柔らかな午後の日差しが射しこんだ。
「すごーい! あてた人はじめてです! なんでわかったんですか?」
思わず手をたたく。
杏からアンドロメダ姫。自分の名前ながら、ちょっと想像するのはむずかしいと思う。
でも、星空に興味をもってからはよけいに、神話をモチーフにした名前ってわれながらちょっといいなと思っていただけに、由来を当てられると興奮してしまう。
端的に言って、感動していた。
待夜先輩は、長い指で星座神話図鑑のページの、両手をしばられた乙女の挿絵を指さした。
「かんたんなことですよ。自分を犠牲にして民を救おうとするアンドロメダ姫と、杏さんは似ていますから」
……忘れてた。
この人は、あたしの恋心を狙っているんだった。
ただし、食用としてだけど。
しばしフリーズした自分に、騙されないぞ、と念を押す。
「そんなふうに警戒しないで。思ったことを言っただけですから」
待夜先輩は少しだけ困ったように苦笑した。
その表情がどうしてか心地よくて、完全に油断した。
彼の背中の向こうからあたしに向けられた敵意の視線に、まったく気づかなかったのだ。
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