第1章 ラヴァンパイアとお近づきになりました

1. 校舎の窓から落下して

 数日後の昼休み、あたしは校舎の7階の窓のすぐ下にとりつけられた、その幅わずか30cmほどのコンクリート部分をつたっていた。

 職業を高校生から大工に変えたというわけじゃない。

 はじまりは、窓側の席で友達の千佳とお弁当を食べていたとき。かすかににゃーというなんとも甘ったるく魅惑的な声をきいた。

 ここは校舎の7階。そこへ『にゃー』? 不審に思って窓を開ける。そして、窓の向こう――コンクリートを伝ったところにある屋上で肌色に白ぶちの子ねこが動けなくなっているのを目撃したというわけだ。

 かくして今、救助活動に移行している。

「ね、杏。危ないよ。やめなって!」

 窓から心配そうに声をかけてくる友達の千佳と、ぞくぞく集まってくるクラスメートのざわめきを背に、あたしは窓に手をつけながら、コンクリートをつたう。

 5歩ほど進むと、隣の校舎の屋上がある。

 その柵の外側で、救助対象がうずくまっている。

「おいで。こっちおいでったら」

 あたしは子ねこめがけて、必死に手を伸ばす。

 子ねこはじっと動かない。

 丸くなった小さな身体が震えている。

 疑っているというより、不安で身動きもとれない。そんな感じだ。

「おねがい。来て」

 必死の願いが通じたのか、子ねこはそろそろと、あたしの右手にのった――まではよかったんだけど。

「うひゃっ、わきゃっ、ちょっと!」

 そのまま肩をつたい、左手をつたい、見事、われらが1年B組の教室まで自力で生還する。

 クラスからわぁっとあがる歓声。

 あたしも思わず、ほっと息をついた。

 のがいけなかった。

 安心して一歩、教室へと踏み出した右足がするり。じつに不穏な音をたてる。

 クラスからあがる、悲鳴とともに、あたしは真っ逆さまに、グラウンドへと落ちて行った。



♡~♡~♡



 思えば、なんてあっけない人生だったんだろう。



 小学三年のとき運動会の徒競走で一位になったこと。

 中学二年のとき料理部で焼き魚を見事焦がして、ブラック・フィッシュを完成させたこと。

 あたしの脳裏にはこれまでの麗しき思い出が走馬灯のように――蘇るよゆうはなかった。



 落下して直後、ふわりと身体がなにかに包まれる感覚。


 気がついたときには、ことんとほんのわずかな衝撃をともない、あたしはグラウンドに着地していた。

 いやこれは着地というのか。

 地面に身体がついていない。だいぶ浮いている。全身を包まれる感覚はあいかわらずある。そして斜め上から、端正な笑顔がのぞいている。

 その笑顔が、言った。



「好きになって、いただけましたか」



 ふわりと軽やかに地面に降ろされつつ、状況整理する。

 あたしは7階の窓辺から落ちた。うん。これはまちがいない。そして、たしかに、落下直後に感じた包まれるような感覚――つまりこれは、運動場にいた彼が高々とジャンプしてあたしを抱え込み、着地した、と。

 そういうことなのだろうか。

 まさか。

 そんな人間離れした離れ業を高校生がやってのけたら、周りが騒がないわけが――。

「待夜、今の、どうやったんだ!?」

「すごーい! 体操選手みたい」

「さすが待夜先輩」 


 あわれ否定する要素をそがれて、ぼうぜんと立ちつくすあたしの前に、さわぎをききつけた先生もだいじょうぶか、とやってくる。


 彼、待夜先輩はなんてことないように微笑んで、


「問題ありません。彼女にけがをさせることは、なんとしてでも阻止します。オレにとって、最大の不名誉ですから」


 そのヴァイオレットグレイの瞳がかすかにアメジストのように光った気がした。


「ですが、見られてしまったことは少し、不都合ですね」


 その瞬間、あたりが灰色になる。

 えっと、あたしは息を飲んだ。

 その瞬間、たしかに、誰もかれもが停止していた。

 ただ一人、待夜先輩の瞳だけが、謎めいた瞬きをゆっくりと繰り返し――。

 世界が、再び動き出した。


「すごい。待夜が受け止めたんですよ」

「落ちてくる三朝みさささんを、運動場ですぱっと!」


「……?」

 かすかな違和感が異臭のように鼻腔にただよう。

 少し、ちがう。

 先輩は人間業と思えないくらい高く飛び上がって空中であたしをキャッチした。

 その事実が、群がる生徒たちや先生のなかで、なかったことになっている――。

「待夜、三朝、だいじょうぶか? 念のため保健室に来い」

 そう言ってくる先生に、

「いえ、あたしなんともありません。大丈夫です」

「でもなぁ」

 押し問答しているところへ、さらりと割って入ったのは待夜先輩だ。

「僕が送ります、先生。さ、杏さん」

「あ、あの。待夜先輩。その、ありがとう、ございました」

 彼がにっこり笑いかけてくる。

「いいえ」

 生徒たちの視線が突き刺さる。興奮に頬を硬直させる女子。なかには衝撃を受けたように身を引く女子も――その中にはクラスメイトも混じっていた。

 羨望、感嘆――そして、わずかな嫉妬を感じる。

 面倒ごとは避けたいのにとちょっと泣きそうになる。

 連れ立って歩きながら、彼の中低音がついでのように耳元で鳴った。

「さっきのは、冗談ですよ。そんなには急ぎません。女性を射止めるのに相応の時間をかけるのは一種礼儀ですから」

 そして、さらに近くで。



「でも、気をつけて。優しすぎる性格はときに、危険を招きますから」



 なぜだかぎくりとして、隣を見る。

 きらりと彼のその形のいい口の端になにかが光ったような気がした。

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