一、夢か現か





『君、迷ったんだね』



そう言ったのは、誰だったっけ。


何の言葉だったっけ。



君、迷ったんだね。



迷った。



何に?迷う・・・それは、もしかして―




はっとして、目を覚ますと、そこは窓際だった。


鳥の囀りが聞こえる。


眩しい光が、部屋に差し込んでいる。


暖かい、陽射しだ。


もう少しまどろんで居たい所だったが、今はそれどころではない。



 「―――」



思い当たった事を報告しようと、振り返りながら声を出して、違和感。



今、確かに自分は『ケイ』と呼んだ筈なのだが―



 「!」



そして、振り返った先の光景に、私は固唾を呑んだ。


まず、ソファがない。


ケイは床に転がったまま、がーがーといびきをかいている。


寝袋は奥に転がっていて、リュックの中身が散乱していた。


一体どういうことだ。


私は慌てて一階に向かった。



―やはりか。


予想通りだった。


並べられていたショーケースも、中身の時計も、そしてその時計が刻んでいた音も、全て無くなっていて、元通りになっていた。



―夢、だったのだろうか。



しばし呆然とし、それから、再び、階段を上る。



とぼ、とぼ、と。



やけにリアルな、それでいて不思議な夢だった。



いやいや、夢なんだから、不思議で当たり前だ。



しかし、なんだって、あんな夢を見てしまったんだろう。



難しく考え出したら、疲労感がどっと押し寄せてきて、私は振り払うように頭を横に振る。


もう少し、あの窓際で眠ろうか。





「N.n!」



二階に戻って、真っ先に飛んできたのは、ケイが呼ぶ声だった。


なんだ、起きてしまったのか。


いつももっと眠っているのに、今日に限って。


私は今猛烈に機嫌を損ねているというのに。


フー!と怒りを表わすと、ドアから出てきたケイの顔が強張った。

 


「お前、戻っちゃったの?」

 



今度は私がきょとんとする番だった。


今、ケイは何て言った?



 「なんだよ、言葉を失くしたのかよ?いやそれ以前に夢だったのかよ?えー、まじ訳わかんねぇ。」



ケイはへなへなと腰を抜かす如く、その場にしゃがみこむ。



―言葉を失くした?



では、ケイも同じ夢を見ていた、ということか?


それとも。




訊きたいが、今の私は人間の言葉を話すことができない。


もどかしい。


しゃがみ込むケイをただ、見つめるだけの私は、この状況にどう対処すれば良いのか、判断できないでいた。



「ん?」



そんな折、床と向き合っていたケイが、何かを発見したかのような声を上げる。




 「あ・・・あーーー!」


カサカサ、音を立ててケイが拾い上げたものは。


 「見ろよ、N.n!」


覗き込もうとした私の目の前に、ケイが広げてみせた紙切れ。



―あ。



それは、紛れもなく、孝が自分の小学校と家と駅名を記したあのメモだった。





「やっぱり夢じゃねぇ。」



ケイと私の見てきたものが、現実だという証拠だった。



―夢じゃ、ない?だとすれば、あの世界は一体どうなったんだ?



狼狽える私を余所に、ケイはがばっと立ち上がって、窓際に小走りに駆け寄った。



 「シャッターはどこも閉まってる。」




昨日のこの時間帯、商店街はどこも開店していた。


しかし、今は物音一つ聞こえない程の静寂が支配している。


賑やかだった商店街とはかけ離れている。



 「なんでだろう。どうしてこっちに戻ってきちゃったんだろう。」



ケイは腑に落ちない、と言いながら、部屋を出て、階段を下りる。


私もその後に続いた。



 「N.n、お前は見たよな?確かに見たよな?あのショーケース、一体どこから運ばれてきてどこにいっちゃったんだ?」



がらんとした店内。


古びたカウンターはかろうじて残っているものの、大分年季が入っている。



 「変わらず、残ってるのはやっぱり―あの二つか。」


言いながら、ケイは表に貼り出している紙に目をやって、その後、大きな柱時計の背を見つめた。


確かに、この二つは、いつも同じ位置にある。


それだけは変わらない。




「時計と、貼り紙・・・時計・・・」



呟いたケイが、突然はっとしたように顔を上げて立ち上がる。



―なんだなんだ?



不思議に思う私を余所に、ケイは小走りで店の外に出ると、時計の真正面に立った。



やや遅れて、私も傍に行き、同じように時計を見上げた。

 


「・・・止まってる。」




シンボルの時計の時針は、四を指して止まったまま。あとの分針と秒針はゼロで固まっている。



 「そういえば」



突然、ケイが何かを思い出したようにポケットを漁り、出てきたのはスマホだった。



 「動いてる。今の時間は七時十五分くらいだ。」



ケイはそう言いながら、今度は反対側のポケットをがさがさと漁る。


今度出てきたのは、例の、鈍い光を放つ、撒き鍵だ。



 「俺の考えが正しければ、この巻き鍵を巻いた時点で世界が変わる筈だ。」



見てろよ、N.n。そう言って、脚立を持ってくるとそれに上り。


ケイは柱時計の扉を開けた。


長い間、使われていなかったにも関わらず、大きなその時計は、大した汚れもなく、綺麗だった。


大切に使用されていたのが、見て取れた。


柱時計の文字盤にある穴はふたつ。


ケイはその片方ともう一方に巻き鍵を差し込み、それぞれ反対方向に回した。


カチ、カチ、カチリ。心地良い音をたてて。






「―あれ?」



時計の針は、動き出した。


私達は、静かな商店街をきょろきょろと見回し、空模様も確かめたが。

 


「なんでだ?」



周囲の変化は、何一つ、なかった。


いや、ないように見える。


誰かが誰かと話す様子もない。



自転車の学生が通ることも、ランドセルを背負った子供たちが追いかけっこをしながら道を突っ切っていく様子もない。



それどころか、誰かがシャッターを開ける音すら聞こえて来ない。

 


「・・・・えぇ、何でだよ?」



途方に暮れたように言って、ケイはその場で脱力する。



 「やっぱり夢なのか?」



私と目を合わせることなく、四の位置から時を刻み始めた柱時計に、問い掛ける様に、ケイが呟いた。



 「だとしたら、この紙切れは、夢遊病かなんかの俺が書いたのか?」



自嘲気味に、ははっと笑った後、ケイは身を翻して、店内に戻った。


その後ろ姿に、夢ではない、と声を掛けてあげたい衝動に駆られたが、猫の私に言葉が与えられることもなく。


ただ、カチカチカチという大きな時を刻む音が、異様な存在感を放っていた。



それからというもの、ケイは難しい顔をしたまま黙り込み、時間を無駄に浪費し、私も猫の癖に昼寝することも無いまま、悶々とした思いを抱え過ごした。



一日がここまで長く感じたことは未だかつて無く、窓から見える空の色が茜色に染まったのに気付くのも、大分遅れた。


そこへ―



―なんだ?



控えめに戸を叩く音が聞こえ、私は伏せていた身体を上げて、耳を欹てた。


人間の耳には聞こえないらしく、ケイは相変わらず宙とにらめっこしている。



コン、コン、コン



そこへ、さっきより強めのノックに加え―



 「すみません。どなたかいらっしゃいますか?」



女性の声がした。


ケイも漸く気付いたらしく、慌てた様子で「はいはい」と返事をしつつ、バタバタと部屋から出て行く。


私はその脇を走りながら、人間嫌いのケイは、ぼんやりしていたから、うっかり返事をしてしまったのか、それとも若そうな女性の声だったから、出てみる気になったのか、どっちなんだろう、と、どうでも良いことを真剣に考えていた。




 「あ、すいません。あの貼り紙を見て、来たんですけど。」



一階の店の入り口の前に、申し訳なさそうに立っていた女性は、やはり若かった。


20代といった所だろう。


控えめな茶色に染めた髪は、肩に掛かる位の長さだ。


背はやや低めで、瞳はくりっとしていた。




「・・・何でしょうか。」



ケイは一瞬うっとした表情を浮かべたが―気付かずうっかり返事をしてしまったという結論が正しかったらしい―、かろうじて、踏みとどまっている。



普通であれば、店の中に招き入れ、椅子のひとつやふたつ勧めてもいいものを、そこまではまだ気が回らないケイ。


いやそもそも、今はその椅子もないのだが。




 「あの・・・私、昔この近所に住んでいました。纐纈(こうけつ)しおりと言います。」



こんな変な探偵事務所でも、この女性は、もとい、纐纈しおりは気にならないらしく、緊張した面持ちで話し始める。


本人以上に探偵を名乗っている男の方が緊張しているなんて、露程にも思っていないだろう。



 「それで、あの・・・ある人を、捜して欲しいんです。」



纐纈しおりの話によれば、彼女は小学校の頃、地域のバスケットボールのチームに所属していたらしい。


途中で転校した為に、辞めざるを得なかったが、その直前の大会で会った少年を捜して欲しいと言う。



 「名前も、覚えていなくて・・・大人になった姿も、わからないんですけど・・・どうしても会いたくて・・・けど・・この街に戻ってきたら、簡単に会えるような気がしてたのに、実際は中々上手くいかなくて、結局二年も過ぎてしまいました。」



大学生活は、あと半分も残っていない。


そう考えれば考える程、焦りが出てきて、何も手に付かなくなってしまい、途方に暮れていた時、ここの貼り紙を目にしたらしい。



 「お願いします。お金はそんなにないですけど、分割にしていただければ、払えるだけ払います。バイトして貯めたお金も少しありますし・・・」





纐纈しおりの話を、ケイは凡そ相槌とは言えない、頷き程度、いや無言で聞いていたが、彼女の話が終わると、予想通りというべきか、沈黙した。


そもそも聞く気があったのかもわからない。


私としては居たたまれない。


右には無表情男。


左には必死な顔して訴える女に挟まれているのだから。




 「・・・何か、手がかりになりそうなものは、持ってますか?」



暫くした後、ケイは漸く、それらしいことを訊ねた。



 「あ、はい、一応。あの、手がかりになるかどうかはわからなかったのですが・・・むしろその子に関する情報は、これだけしかないという方が正しいんですけど・・・」



纐纈しおりがそう言って、トートバッグから取り出したのは、一枚の写真だった。



 「大会の時、優勝したチームと、準優勝したチームとで写真を撮ったんです。私は準優勝でしたけど、その子は優勝したチームの方で…」


お借りします、と言って、ケイはそれを、纐纈しおりから受け取る。


「どの子ですか?」



ケイが訊ね、纐纈しおりが迷うことなく指差した。

 

「この子です。」



その瞬間、ケイの目が見開かれたのを私は見逃さなかった。



 「この、子ですか・・・」


 「どうですか?お願いできそうですか?」



不安げに問う依頼主は、ケイの動揺に気付かない。



 「・・・・・・」



ケイは直ぐには答えず、代わりに穴が開くほど、写真を見つめた。


そして―



 「二、三日、時間を下さい。それから、お返事します。」



 煮え切らない返事をした。







―なんでだ?


どうして、とりあえず保留にしたのだろう?


人間嫌いが治ったとでも?


いや、そういう風には全く見えない。


やはり若い女性だからか?


じじばば共は追い払うが、若い女性はケイも無下にはできないのだろうか。


私は、ケイの言動の理由がわからず、内心首を傾げていたが、その疑問は直ぐに解ける。



纐纈しおりが帰ってから、下から全く見えなかった依頼者の写真を、ケイが私に見せてくれたからだ。





 「偶然だと思うか?」




 ケイは難しい顔をしたまま二階に戻り、私が窓際のお気に入りスペースに―もう陽の光はなく、真っ暗だが―とび乗ったところで、写真を差し出した。




覗き込んでみると、僅かに色褪せてはいるものの、枠の中、二種類のユニフォーム姿の子供たちが、はっきりと写っている。



皆笑顔で、ピースサインをしている者、目を瞑ってしまっている者等様々だ。優勝チームのキャプテンだろう、トロフィーを持っている少年は誇らし気な表情で胸を張っている。



パッと見た位では、ケイが驚いた原因はわからない。


 「こいつ。」



だが、ケイが指差した先―写真の真ん中ではなく、左の隅に笑顔ではない小さな少年の存在に気付いた瞬間、私もやはり目を見開く羽目になった。



―これは・・・




「人違いじゃないよな?あいつだよな?」




ケイの言う通り、そこに写っているのは、確かにあの少年。


私達の所へ、腕時計を捜して欲しいと頼みに来た、変に大人びた小学生。



五月女孝だった。




その夜は、別宅に行く気にも更々なれず、例の如く軽い食事で済ませ、お互い早々に床に就いた。


だが、それぞれ、気になることがありすぎて、中々寝付けない。


話すことは叶わないので、会話することは無いが、時折ケイが寝袋の中で寝返りを打つのか、ガサ、ゴソ、と音がするので眠っていないことがわかるのだ。



かく言う私も、時計の謎と、纐纈しおりの依頼、五月女孝がやはり実在すること、そして、それがどうも過去だという事実が、この小さい脳みその中の駆け巡っており、まだまだ眠れそうにない。



これらは全て繋がっているのだろうか。



何か関係しているのだろうか。



知る為には、あの世界、つまり過去に行く必要があるが、どうすれば、また行けるのかもわからない。




全てはケイとの関連があると思うのだが、ケイ自体も理解しているのかどうか。




どんなに考えても、答えなんてある筈もなく、暴走している頭も、疲れを感じ始めてきた頃。




パタ、パタと窓に打ち付ける音に気付き、ふと瞼を開いたことにより、自分は今眠りかけていたのだと気付いた。






―雨か。




窓ガラスに当たる雨は、激しくは無いが、滴は大きかった。


静かな雨音を聴きながら、うつらうつら始めると、何故か一際、大きな声が、私の頭に響いた。




 『迷ったんだね。』




ああ、そうだ。



確か、自分は、その言葉の示す意味に気付いて、ケイに報告しなくちゃと思ったんだった。



だけど、伝えることは出来ない。



だって、もう私には言葉がない。



もしももう一度過去に戻ったのだとしたら、真っ先に伝えなければ。



何度も言うようだが、猫は寝る生き物だ。



それなのに、これだけ起きているとなると、眠れた時は、貪る様に睡眠を取りたい。




案の定、ケイが先だったのか、私が先だったのかはわからないが、私は深い闇に落ちた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る