カフェインファイター

砂上楼閣

第1話〜眠れぬ男の1日

◇◇◇


彼の1日はコーヒー豆を齧ることから始まる。


フィルターもミルもいらない。


豆のまま噛みしめる。


濃厚な苦味が実にエクセレント。


男の好みはブルーマウンテン。


時々キリマンジャロ。


時間がないときはエナジードリンクを少々。


寝ている間ずっと稼働していたランニングマシンの電源を切り、彼は家を出る。


一晩中ふらふらと歩き続けたが、頭は眠っていたのでクリアだ。


出勤に電車は使わない。


当然のように走る。


靴は履いているが底はない。


履き直している暇はない。


足裏はゴム底のように分厚いので、割れたガラスや釘くらいならノープロブレム。


馴染みの店で通りすがりに朝食と弁当を受け取り、走りながら口に運ぶ。


朝日が顔を覗かせた頃から走り始めて、そろそろ太陽が地平線から3つ分くらいの位置だ。


ようやく会社に辿り着く。


走って乱れた服装を整える。


生まれてこの方ほぼ立ち止まる事なく動いてきた男にとって、この程度の距離では汗もかかない。


それでも念のため、消臭スプレーをワンプッシュ。ツープッシュ。


さらに念のためにスリープッシュ。


(さぁ、今日こそは)


彼は意を決して、会社の入り口をくぐる。


「おはようございます」


入り口の正面の受付に、天使がいた。


間違えた、受付嬢がいた。


ドキン⭐︎


男の心臓が跳ねる。


今日も朝から素敵な笑顔。


数時間にも及ぶランニングでも平常運転だった心臓がドクンッドクンッと高鳴る。


彼は唯一、彼女の前では立ち止まる事ができた。


初めて会ったその時から、彼女の前では立ち止まれば停止するはずの心臓は逆に加速する始末。


ドッドッドッと心臓が力強く脈打ち、まるで100メートル走を終えた直後のようだ。


いや、どんな運動にも負けないくらい、彼女は彼の心臓をスパークさせる。


おっといけない!


彼は彼女に見惚れて数秒ほど立ち尽くしていることに気付いた。


初めて会った時など、人生初の(足の)停止時間1分を記録したほどだ。


すぐに挨拶を返せないようでは彼女に嫌われてしまう!


それこそショックで心臓が止まってしまうかもしれない。


(おはようございます!)


「おおおおおおおはっははははよよよよよよよ⁉︎」


ドッドッドッド!


いけない!


あまりの鼓動に発する言葉まで震えてしまう。


まさしくハート、ヒート、ビート!


緊張で吹き出た汗が蒸発する。


知的な男性が好きかもしれないという理由で付け始めた伊達メガネが真っ白だ。


お肌も天然、いや、人工ミストでつやつやになる。


鼓動と共に細胞も活性化。


新たな細胞に潤いが弾けてお肌が5歳は若返る。


発想の転換!


彼の頭脳がギュンギュンと回転を始める。


彼は思った、これは彼女へのアピールになるかもしれない。


(僕といれば、いつだって貴女のお肌はつやつやですよ)


(まあ素敵!付き合って!)


(はは!まいったねこりゃ!)


よし、いける!


ドクンッドクンッドクン…ドク…


おっといけない!


ーーーどどどどどどんっ!


止まりかけた心臓を気合いを入れた拳のドラミングで蘇生する。


急加速したり急停止したりと忙しい心臓である。


「だ、大丈夫ですか?」


受付嬢さんに心配されてしまった!


彼の蘇生したばかりの心臓が跳ね上がる。


それはそうだろう。


挨拶した相手がフリーズしたと思ったら壊れたように挨拶を始めて、かと思えばドラミングしているのだから。


この後の対応を間違えれば呼ばれるのは救急車か、警備の人か。


どちらにせよ救急車で運ばれている間に心臓が止まってしまうし、事情を聞かれていても止まってしまうので結局救急車を呼ばれるだろう。


それならいっそ最初から救急車を呼んでほしい。


あと悪いのは頭でなく心臓なのは伝えてほしい。


そしてちなみにドラミングでよくイメージされるゴリラが胸を叩く動きだが、あれは正確には拳ではなく掌で叩いている。


(心配ありませんよ。心肺蘇生は十八番なんです!)


「し、心肺蘇生はありませんよ!十八番なんです!」


「え?あ、はい…?」


ほぼ噛まずに言えたと喜ぶ彼は、このままだと再び心臓が止まってしまうため、やむなくエレベーター、ではなく階段へと歩き出す。


そしてこの数秒後、言い間違いに気付いた彼は三十階分の階段を一気に駆け上がり、そのままの勢いで屋上から向かいのビルに突っ込むことになる。


こうして男の1日は始まった。


そしてなんやかんやあって夕方である。


飛びすぎだって?


サラリーマンの仕事風景など想像以上でもそれ以下でもないのだ。


強いて言えばこの男の場合、止まると心臓も停止するので小刻みに足を震わせて鼓動をキープしている。


その際、貧乏ゆすりだ、五月蝿いだなんだと言われないように目に見えないほど高速に動いて、かつ僅かに宙に浮いている。


やろうと思えば水の上も歩ける。


そんな変わり映えのない仕事風景である。


そして男は再び受付で色々とやらかしながら退社する。


明日こそはきちんと挨拶をしよう。


そしてできるならば食事に誘おう。


そう決心して、再び数時間かけて自宅へと駆けて行く。


途中赤信号に何度か心臓まで停められそうになりながら帰宅し、彼はランニングマシンの電源を入れた。


◇◇◇


時は少々遡る。


元気いっぱいに走り去った男を見送り、受付嬢は笑顔を消した。


待合室に連絡し、受付を交代する。


彼女はそのままのエレベーターに乗り、最上階付近にある会議室に入った。


薄暗い会議室には長机が円を描くように並べられ、等間隔にモニターが入り口を向くように並べられていた。


受付嬢が長机に置かれたボタンを押す。


すると全ての画面が一斉に起動し、某組織のようなNo.のみが表示される。


「定時となりましたので、本日の報告をさせていただきます」


そこに普段は笑顔の素敵な彼女はいない。


いるのはどこぞの国のエージェントの風格の女性。


『実験体No.18の様子はどうだ?』


画面の一つから変声機を通した声が響いた。


「はい、本日の実験体No.18ですが…」


そう、この会社は表面上は一般企業だが、裏の顔は悪の秘密結社という特撮番組もかくやという組織だったのだ。


彼らは日夜善良な市民たち、だと足がつきやすいので会社で雇った人員を使って実験を繰り返していた。


何も知らない社員に対し投薬や洗脳を用いて何でも言うことを聞く、疲れ知らずのブラックワーカー達を量産するために。


その実験体の一人が、動き続けなければ心臓の止まってしまう彼である。


実験体No.18。


コードネーム、カフェインファイター。


カフェインを摂取することで無限とも言えるエネルギーを生み出すことが出来る、最凶のブラック社員。


投薬の際、下っ端ブラックワーカーが誤ってカフェインを大量に与え続けた結果生まれた、悲しき生き物である。


なおなぜ彼のような実験体が生まれたのかは未だに解明されていない。


同様の実験で似たような男の被検体に同量のカフェインを接取させ続けてみたが、出来上がったのはただのカフェイン中毒者。


被検体となった彼は体を壊し、今では入院加療中である。


カフェインの取り過ぎには注意しよう。


脈拍数や呼吸数が増加したり、胸痛やめまい、興奮、不安、震え、不眠などの初期症状が出たら気を付けよう。


また消化器官が刺激されて下痢や吐き気、嘔吐などもあるらしいぞ!


さて、カフェインファイターである。


彼は習慣的に眠ってこそいるが、実の所カフェインを摂取しておけば不眠不休で活動可能である。


それどころか少量のカフェインで超人的なパフォーマンスを発揮し、非公式ながら世界記録をいくつも塗り替えてすらいる。


なぜカフェインからこれほどの力を発揮できるのか。


このエネルギーの発生のメカニズムを解明できれば、人類は疲れ知らず睡眠いらずで働き続けることができる。


しかし動きを止めれば心臓も停まり、エネルギーは生み出されなくなってしまう。


そこさえ改善されれば、この悪の組織ブラックカンパニーはさらなる発展ができるのに!


『……うむ、では引き続き経過観察を頼む。奴の足止めは君にしかできんからな』


『君には期待しているぞ』


止まると死んでしまう回遊魚のごとき男カフェインファイター。


その記録を取るのも一筋縄ではいかない。


なぜなら止まると心臓も止まるから。


唯一彼に惚れられている彼女の前を除いて。


「はっ!お任せください」


受付嬢が返事をし、その日の報告会は終了する。


全てのモニターの電源が切れたのを確認し、受付嬢は呟く。


「はぁ、転職したい…」


もうすでに世間一般的な定時と呼ばれる時間は過ぎている。


これから先ほどまでの報告をデータにしてまとめ、上司に提出しなければならない。


わざわざリモートでの報告会など開くなと声を大にして叫びたい。


暇なのか、と。


報告書を読むだけでいいじゃないか、と。


特に質問らしい質問もなく、彼女の報告を聞くだけで、喋るのは最初と最後の一言二言のみ。


お前ら偉そうなセリフをそれっぽく言いたいだけだろ、と。


そして毎度のことだが、明らかに設置されているカメラの位置がおかしい。


なぜそんなローアングルな位置と上から見下ろす位置に設置されているのか。


最初に立つ位置を指定し、わざわざ途中で会議室を一周歩かせる意味はあるのか。


絶対報告内容など聞かず、カメラ越しに受付嬢のことを見ているのがなんとなく分かる。


彼女はため息をつき、報告書を作成するためにエレベーターに乗って下に降りていく。


愚痴ったところで労働時間が短くなることも、退社時間が早くなることもないのだ。


悪の組織ブラックカンパニー。


来るもの拒まず、去ろうとする者はてこでも逃がさない。


常日頃からの人格否定、ハラスメント、過剰なノルマにetc


使えなければ洗脳し、真面目に働いていても壊れるまで働かされる闇の組織。


そんなブラックカンパニーは、日本各地に支社を構えて、新卒、中途採用、あらゆる人材を狙っている。


この国からブラックカンパニーを根絶やしにすることはできるのか?


いずれカフェインファイターと受付嬢がブラックカンパニーから脱出し、悪の組織を潰して回るヒーローとヒロインに……なんて展開があるかどうかは分からない。


頑張れカフェインファイター!


負けるなカフェインファイター!


走り続けろ、その心臓の動く限り!


〜完〜

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カフェインファイター 砂上楼閣 @sagamirokaku

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