11
「蛇。」
レイジにそんなふうに呼ばれたミンジュは、返事をせずに彼の横を通り抜けようとした。蛇男と呼ばれることはしばしばあるし、別に不快とは思わないし返事だってする。しかし蛇はもう人間の要素が微塵も含まれていない。普通に不快だったし返事をする義理も感じなかった。
窓も壁も崩落した部屋の中、それでもミンジュは元はドアであった空間から必ず出入りをする。その謎の律義さを本人は自覚していないらしいが、今も彼は心底不本意そうな顔をしながら、階段からドアの間に陣取るレイジのソファセットのすぐ横を通り抜けようとした。
呼びかけを存在さえ無にするような空気感で無視されたレイジは、椅子から立ち上がらずに右手だけ伸ばしてミンジュの腕を掴んだ。
ミンジュは掴まれた腕を見下ろし、瞳孔が縦に切れた両目を不快感で満たしながらレイジを見下ろす。
「引き留める気ならせめて立て。」
レイジは蛇男の不満については返答せず、掴んだ腕を離すことも立ち上がることもせず、ルイによく似た形の両目で蛇男を見上げる。
その白い顔。躊躇いのない暴力で成り上がった屑の極みのポン引きとは思えない、端正で繊細な容貌。それはあまりにもルイに似ている。それを意識してしまえば、ルイの影をはっきりと滲ませる男を、ミンジュはもう振り払えない。
それを察してレイジは薄く笑った。
「離せよ。」
語気だけ強めた蛇男は、しかしその場から動く気配を見せない。この世で一番醜い虫けらでも見るような目でレイジを見下ろしながらも、どうしても掴まれた腕を動かせない。
「ジャッキーも殺すのか?」
あからさまにルイに惚れ込んでいる蛇男をあざ笑うように、レイジは唇を歪めて吐き捨てる。
「あいつはロンを庇うぞ死ぬ気で。」
その言葉はミンジュにとってこの上なく不快だった。どこまでもどこまでも不快だった。真底気にくわないこの男を殺そうとすれば、ルイがそれこそ死ぬ気でこの男を庇うことを知っているから、なおさら。
「必要なら。」
蛇男は努めて表情も声音も揺らさず答える。
必要なら、ジャッキーも殺す。
大して美しくはないが、華やかで明るいあの売春婦。トレードマークの赤いドレスとよく手入れされた黒髪。象牙の色をした肌は滑らかで、笑うと両頬に目立つえくぼができる。
初潮もこないうちから兄に犯された挙句、10をいくつか出た頃にはもうその兄の元で身を売ってきた割に悲壮感がないのは、彼女自身があの稼業を嫌ってはいないからだ。あの稼業を、というかそもそも彼女は、どんな状況に置かれようとそれなりに楽しげに生きられる女なのだろう。雨なら雨で雨音に踊り、寒い晩には商売仲間と身を寄せ合うし、熱帯夜には冷たい壁に頬をつけて笑う。
ミンジュはそんなジャッキーが嫌いではなかった。と言うか。この町の底辺あたりを漂っている住民たちは、男も女も誰ひとり彼女を嫌ってはいないだろう。
それでも、殺す。必要ならあの女の赤いドレスに刃物を突き立てる。自分にはそれが出来るという自負は、常にミンジュを支えていた。それができなくなったときが自分が殺される時だ。
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