8

ルイはそれ以上なにも言わず、蛇男の背中を再び押した。

狂ってる。確かにルイの兄は狂っている。あの静かで綺麗な顔からは想像できないほどの暴力性を爆発させるときのレイジは、どこからどう見ても気が狂っているのだ。

「帰ってよ。」

ルイは力なく呻き、蛇男の背中を薄い拳で叩いた。暴力は常にレイジの担当だったので、彼女の拳は軽くやわらかかった。そのことを彼女自身も知っていて、いつだって歯がゆく思っている。

私の拳もレイジのそれのように重く堅ければ、こんなふうに一歩も動けなくなる前にどこにだってひとりで行けたのに。

そのルイの内心の慟哭をよく知る蛇男は、くるりと身を返してルイの拳を手のひらで包んだ。

「俺はお前のためならなんでもしてやる。」

蛇男の手はびっしりと黒緑色の刺青で覆われて、人の肌とは思えない光沢を放っている。

ルイはその皮膚から目をそらし、蛇男の手を振り払った。

「知ってるわ。」

この蛇男は、事実ルイのためならなんでもした。ルイはめったにこの男になにかを望むことはなかったが、そのたまの願いをこの男は全て叶えてきた。かつてジャッキーの兄をこの町から追い出したのも、この蛇男だ。ルイのその願いをかなえるために、女が一人死んだ。だからもうルイは、蛇男になにも願うつもりはなかった。

「知ってるけど、もういいの。なにもしてほしくないわ。」

例えばこの町から連れ出して、と願ったとする。

この蛇男はレイジを殺してでもルイを連れ出すだろう。その先の生活だって、ルイがもう身体を売りたくないと言えば、蛇男が自分の身体を売った金でルイを食わせてくれるのだろう。今だって女で飯を食っているのだから、どうせ同じことだと言いながら。

それでもルイは、自分ひとりのために気儘に身を売ることと、誰かのために身体を縛り付けられて売春稼業に励むことの、大きな違いを知っていた。

蛇男はルイの身体に触れぬまま、白く削げた頬でひっそりと笑った。全身の刺青や縦に切れた瞳孔のみでなく、男の白く細い顔や体はどことなく蛇に似ている。

「ほんとうに、なにも?」

蛇男が緩やかに首を傾げて問う。彼の一つにくくられた長い黒髪が、さらさらと胸の方に流れて朝日に透ける。

ルイは男の問いに間髪入れず頷く。考えてはいけない。胸の中を覗き込んではいけない。そこに渦巻く真っ黒い願いが、唇を割って出てきてしまう。

なにもない。私はなにも望まない。この町で生きて死んでいくだけ。

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