19話

 桃良さんは書斎にこもったり、たまに出てきて俺に構ったり。家には栗田さんが原稿取りに来たくらい。


 俺は学校に行ったり寝坊した日はそのまま休んで家で桃良さんの相手したり。あれ以降蒐とは話してない。というより口をきいてもらえない。


 蒐は、店長と俺の悪口で盛り上がりながらダーツでもしてるのかな。



 そうやって各々、一週間を過ごした。


「さっぶ」
 



 仕事の帰り道。冷たい夜風が夏服の隙間に入り込む。9月の夜はもう寒い。
 



「ただいま」
 



 家の中は真っ暗。寂しくないようにって寝てる時も玄関と廊下はいっつも電気つけてんのに。出かけたのかな。…俺に黙って出かけることなんて一度もなかったんだけど。
 



 パチリと玄関と廊下の電気を付ける。物音はしない。息を潜めて、鞄の中に手を入れナイフの柄を手探りで掴んだ。

 この家と桃良さんは俺が。…。自分の寝床は自分で守る。正当防衛。
 



 リビングの扉を開く。ひんやりとした風に頬を撫でられた。

 風の主を追いかけた先には全開にされたベランダの窓。白いレースカーテンがふわり小さくなびく。その足元には気持ち悪いくらい綺麗に揃えられた桃良さんのスリッパ。


「桃良、さん?」


 肩にかけていた鞄がするりと床に滑り落ちた。焦る心を押さえて覚束無い足取りでベランダへと向かう。うわ言のように桃良さんの名前を呼び続けた。

 
今日はまっさらな秋晴れで、空は吸い込まれるような青色をしていた。


「桃良さん」


 シャーッとカーテンをゆっくり開く。靴下のままベランダに出た。夜風にさらされたコンクリートが冷たい。



 ベランダの手すりに掴まっていつもより濃く光る月を見てた。月明かりに照らされて映し出された輪郭が孤独で寂しそうに見えた。



「あ、おかえり」
 



 俺に気づいてこちらを振り返る。月明かりの逆光で桃良さんの毛先が黄色く反射した。



「…馬鹿」

「えっ、どうしたの?なんで泣いてるの?」


 
きゅっと桃良さんの手を掴んだ。飛んでいってしまわないように。風船みたいにふらふら飛んで空の上で割れてしまわないように。


 桃良さんの体温を感じた瞬間、涙が込み上げるあの感覚を思い出した。涙こそ出てないけど確かに鼻がジンと痛むあの感覚。

 桃良さんといると自分が自分じゃなくなる。 



「ねぇ見て。今日の月、色が濃くて美味しそうだよ」



 桃良さんが嬉しそうに空を指さす。

 
…ハァ?あんな感傷的な顔しといて心の中では美味しそうだとか思ってたのかよ。分かりづらすぎんだろ。馬鹿桃良。


「お腹空いたね。今日は出前でも頼もうか」


 そう言って桃良さんはポケットからスマホを取り出してさっさと出前を頼んだ。あと30分で来るって、中に戻ろうと俺の手を引く。



 中に入る時汚れた靴下を脱いだ。コンクリートに体温を奪われた足先は真っ赤に腫れていた。ソファの上で膝を抱えぎゅうっと手で温める。全然温かくならない。


「寒い?冷えたかな」


 桃良さんは9月の夜にはまだちょっと早い熱々のココアを2つ持ってきた。俺に一つ渡して一つは卓上に。ソファに腰掛けるついでに自分の羽織っていた物を俺の肩にかけ、そのまたついでにキスをした。



「あ、そうだ。君にしたい話があるんだった」
 



 秘密の話、聞いてくれる?と桃良さんは唇の前で人差し指を立てた。改めて話したいことがあると言われ少し背筋を伸ばす。そんな身構えなくていいよ昔話だと思って聞いてと笑われた。



 あのね、と本当に昔話をするように柔らかく淡々とした口調で話し始めた。


 桃良さんには憧れの小説家がいた。


 その人は本屋大賞を受賞したこともあるらしい。緻密なストーリーと大胆な展開が魅力だと桃良さんは目を輝かせた。

 
桃良さんは高校生の頃その小説家に自分の作品を読んで評価してもらってた。荒削りだけど話は面白いって言われたらしい。
 



 高校三年の秋、ちょうど今の季節。最後に提出した作品。他のものも書きながら一年以上かけて書いたもの。何度も書き直して沢山の時間を費やした自信作。

 でもそれを読んだ小説家は到底読めたものではない、と今までにないくらい厳しい評価をした。
 



「どうにか認めてもらいたくて死ぬ気で書いたんだけどね。本当に死ぬかと思ったよ」


 
懐かしむように遠く笑って話の続きをした。


 その時小説家は添削をするから原稿を預かると言った。卒業前に教えられることは教えてやると桃良さんから原稿を丸々受け取った。

 その後小説家から連絡が来ることはないまま年を越した頃、動いた。
 



 その小説家が本を出した。


 桃良さんが渡した作品と同じ題名。内容も全てそっくりそのまま盗作された。小説家を問い詰めてもお前が書いたという証拠はないだろうとシラを切るだけ。


 そしてその作品は大ヒット。大賞受賞。瞬く間に実写映画化。小説家はメディアにも引っ張りだこ。さも自分が書いたもののように作品の説明をするから吐き気したと桃良さんは嫌悪感を滲ませた。



「それで、殺した」


 ぼうっとココアの湯気を眺めながら呟いた。



「正確には自分で殺したわけじゃないんだけどね」


「えっ…それって、」
 



 自分で殺したわけじゃない。俺達の仕事。扉の前に落とした鞄に入っているナイフ。有名な小説家。沢山思い出して頭が痛くなった。



「人に頼んで殺してもらった」
 



 人気絶頂の小説家が自殺したって結構話題になったんだけど知らない?なんて、聞かないで。

 小説家は浴室で手首を切って死んでたこと。パソコンに遺書があったこと。その日は雲ひとつない晴天だったこと。青い空に蒐がはしゃいでたこと。何も、知らないから。


「殺す程のこと?って思うかもしれないけど、殺す程だったんだ。あの作品を誰よりも愛してた。でも、それ以降書けなくなった」
 



 桃良さんは話を続けた。淡々と、取り留めない会話のように。
 



 あの時ナイフを立てた手首、一週間前殺した親子の首、階段の上でぶつけた肩、今まで殺してきた人の肌と体温が走馬灯のように蘇ってくる。

 
止まれ、ふざけんな。震える手を必死に押さえて隠した。


「賞も取った。惰性で書いても皆認めてくれる。けれどそれは書きたいものじゃなかった。ずっと苦しかった」


 こっちを向いて俺の目を見る。俺今どんな顔してる?焦り。恐怖。それか、桃良さんと同じ柔らかい表情作れてる?


「でもね、君が家に来てくれてから毎日楽しくて、やっと心から書きたいと思えるものが見つかった。難しい言葉は使わない。君に読んで欲しいんだ」



 
桃良さんが俺の手を取る。思わず肩が跳ねた。あまりに滑稽で情けない。


「愛してる。君だけ」
 



 桃良さんの言葉は痛い。誰にも負けない強さを持っている。


 いつだったか、家に来る女は皆桃良さんのことが好きで桃良さんも皆を好きだって言ってた。愛なんていくらでも代わりがあるはずなのに。


「だからずっとここに
 」

「俺も!…俺も秘密の話する。本当の話」
 



 桃良さんの言葉を遮る。最後まで聞く勇気がない。


「まず鈴木優人なんて名前じゃない」


「うん。本当の名前は、聞いてもいい?」



「……神田美輝。美しく輝く」


「綺麗な名前だね。似合ってるよ」



「腹減ってない。勝手に注文すんな」


「あはは、ごめんごめん。明日食べよっか」


「いっつも人の話聞かないよな」


「君の声には耳を澄ませてるよ」
 



「…ココア嫌い。いらない」


「君が来てから減り早いのになぁ」
 



「理子も嫌い。大嫌い」


「本当の話はもうやめたの?」




「それと、塾なんて通ってない。仕事行ってた」

「そうなんだ。偉いね」
 



「それで。だから、その、」


「うん」


 俺の言うこと全てに頷き優しく相槌を打った。桃良さんの馬鹿。だから嫌なんだって。


 見た目に似合わず体温が高い桃良さんの手を一度だけ握り返す。泣きたくなるほど生きてることを感じた。



「その小説家、…桃良さんの憧れの人。俺が殺した」


「そっか」
 



 桃良さんは驚きを見せず前に倣って頷いた。ずっと握られていた手を引き抜く。桃良さんの体温がうつった指が熱い。


「その人だけじゃない。色んな人、殺した。お金もらって。今日も」


「うん」
 



 小説家の桃良さんと違って言葉を紡ぐのは下手だから、口から出るのはいつもぐちゃぐちゃの言葉。それでも桃良さんは俺の言葉に耳を傾けた。大嫌い。


「俺もう、一緒にいれない」
 



 ソファから立ち上がる。蒐の言う通り。俺はここにいちゃ駄目なんだ。これは俺みたいな汚い人間がもらっていい感情じゃない。フローリングが冷たい。足は知らない間に温まっていた。


「ま、待って!そんなこと気にしない。誰にも言わないし警察に通報なんて絶対しない。だからここにいてよ。美輝がいないと何も書けない。小説が全てなんだ。お願い、一人にしないで。全部を奪っていかないで…」
 



 歩き出した時桃良さんに腕を掴まれた。桃良さんの目があちこち泳ぎ回る。いつもは余裕綽々でのんびり話すのに凄い早口。こんな必死に縋るような桃良さんは初めてだった。


「…っ、女呼べば。桃良さんに呼ばれたら皆喜んで」

「美輝がいい!!」
 



 聞き慣れない名前と桃良さんの大声に目の奥が熱くなる。桃良さんの目から流れ落ちる。

 必死に震える呼吸を抑えた。抑えて、押さえて。押し込めて。


「美輝。お願い。美輝じゃないと駄目なんだ」


「…知るかよ」


 目も合わせず手を振り払って家を出た。エントランスで二つの袋を持った配達員とすれ違う。


 
マンションを出ると夜はより一層冷たくなっていた。酒で熱に浮かされた街も凍えてしまいそうなほど冷たい風が濡れた頬を乾かす。
 



 愛とか恋とかどうでもいい。そう思わないと生きていられなかった。


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