16話


 桃良さんの家に来てから1ヶ月が経った。


 盗撮は減ったしあっても校内で撮られたものが数枚。背後に気配を感じることもなくなった。仕事は蒐に任せて学校以外なるべく外を出歩かないようにしてる。身の危険を感じることがほぼない。


 そろそろ戻っても大丈夫な気もするけど今に落ち着いた自分もいる。

 桃良さんは相変わらず変なことばかり言うキス魔。しつこくてウザい。

 でも根は優しくて、話もそれなりに面白い。小説家だからかな。なんてことない雑談でも最後まで聴きたくなる。


 あと、最近は書斎にこもることが増えた。反対に女が来る頻度は減って静かな夜が続いてる。平和すぎて逆に怖い。


 一人馬鹿広いリビングでぼーっとしながらココアを飲んでると、インターホンが鳴った。ドアホンの画面にはよく見かける女がいた。


「はい」

「白永社の栗田です。九条先生はいらっしゃいますか?」


 茶髪を後ろで1つに束ねた女が言った。

 ︎︎“白永社の栗田”。冷蔵庫の料理。返事より先にカチャリと扉を開けた。


「いるけど書斎。待つなら中どうぞ」

「…。ありがとうございます。お邪魔します」


 中に入るよう言うと栗田さんは少し驚いたような顔を見せた。俺そんな気遣いできないような面してるかな。


 リビングに招き入れると栗田さんはすぐ鞄からパソコンを取り出しカチャカチャとキーボードを叩き出した。秒針のような、心音のような。その隣にコーヒーを入れて出すとまた驚いた顔の後に一礼をされた。



 いつもならどこか別の部屋に隠れてただろうけど、今日はなんとなくリビングに留まった。ココアもまだ残ってるし。

 姿勢が良くて隙のない栗田さんの後ろ姿を眺めてふっと考える。


「あの人になんて呼ばれてますか」

「え?普通に栗田さんですよ?…たまに、紗々と、呼んで下さりますが…」


 くるっと振り返って答えて、恥ずかしそうに尻すぼみしていく。言葉が止まった時にはぽっと頬を赤らめた。フルネーム。お気に入りかよ。


「九条先生の、作品は読んだことありますか?」


 
栗田さんがパソコンの画面を見つめながら言った。一瞬詰まった言葉に緊張が見える。素直にないと答えた。
 



「そうですか…。九条桃良は知ってるけど作品は知らない、読んだことないって方結構多いんです。私はそれが凄く悔しくて。素敵な作品なのに。魅力的なのに、って」


 
キーボードの上でぎゅっと握りしめられた手が微かに震えた。
 



「羨ましいです。日常に先生の言葉があるなんて」



 ︎︎そう言ってこちらに振り向ききゅっと目を細め小さく笑った。泣き出しそうに下がった目尻には罪悪感すら覚えた。


 
俺が何も言えずにいると、是非読んでみてください。と鞄の中から一冊の本を取り出し渡してきた。ヤバ、持ち歩いてんのか。

 ただのセフレだと思ってたけど実際は真面目なファンで、そう思うと一気に可哀想に思えてきた。家に出入りしてる女達皆こうなのかな…。


「なんで皆あの人を好きなんですか?人として駄目なとこの方が多いでしょ」

「好きな理由ですか?うーん、そうですね…」


 俺が訊ねると栗田さんは目を泳がせ考えてから口を開いた。


「いつ崩れるか分からない不安定なところ、かな…。庇護欲は時に人を狂わせますから」


 そんな恋をしたことがないから言ってる意味が分からなかった。でも直感的に、諦念に近いと思った。


「ご存知ですか?最近の九条先生、同じ方の話ばかりするんです。その方の話をする時は凄くお喋りになって」


 俺がまた何も言わないでいると、栗田さんは打って変わって明るい声色で話始めた。


 栗田さん曰く、桃良さんは元々無駄なお喋りを嫌うタイプらしい。二人きりの時は特に口数が少なくなるそう。多くを語らないからミステリアスで、そこがまた女性を惹き付けてるんじゃないかって。

 女の前ではそうなんだ…。お喋りな人だと思ってたから、なんか意外。


「なんでも、その方は夏でもココアを飲む変わり者だそうです」


 コンと指の背をマグカップにぶつける。中のココアはもうぬるいはずなのに火傷するかと思った。


「その方から、先生と一緒なら何でも美味しいと言われたそうで。生きてきた中で一番嬉しかった言葉はそれだと教えて下さりました」


 くるりと振り向いて、にこっと栗田さんが笑う。下から上へ上がっていくようにじわじわと耳が熱くなる。


「万華鏡よりも複雑で飽きのこない光。そこに映る澄み切った青が、恋する女の子みたいで愛おしい。そんな人だと」

「…馬鹿かよ」


 あんな一言を。しかも本気じゃない、ただの冗談なのに。他にもっと大切にしまうべきことがあるだろ。


「新作、楽しみにしていてください。小説が自分の全てだと言い切ってしまうお方ですから…。初恋ですね、きっと」


 揺れた語尾に違和感を感じてピントを合わせる。目を向けると笑ってるはずの栗田さんの目が、潤んでいるように見えた。


 栗田さんが仕事に戻ってタイピング音が流れる。会話が途切れる。

 ふと、持たされていた桃良さんの本が目に止まる。


 ︎︎“希望”
 


 真っ白な背景に黒い文字でそれだけ書かれた表紙。
 1ページ捲るとまた題名、と線が絡まった署名。サイン本。これ持ち歩いて…?いや、お守りじゃないんだから…。


 
読んでみて、結局よく分からなかった。


 公安の男が信頼してた先輩に裏切られて落ちぶれていく話?医療過誤の隠蔽から政治の闇が絡んできて、って感じ。
黎明?猩々緋?厭世的?阿る?

 ただでさえ内容が難しいのにそれを説明する言葉がいちいち難しくて知恵熱が出そうになった。
 



 作中、主人公が笑うことは一度もなかった。人に後ろ指さされ裏切られて嘲笑われ。最後は自室で死んでいるのが発見されて話は終わる。主人公は大量の酒と吐瀉物と蛆虫に囲まれていた。


 
なんで希望って名前付けたんだ。どう見ても絶望の方が合ってると思う。


 桃良さんの目にこの世界はどんな風に見えてるんだろう。聞いたら教えてくれるのかな。
やっぱり小説家は何考えてるか分からない。


 
そして、桃良さんが書斎から出て来ないまま窓の外は白からオレンジを通って、黒くなった。


「返します。大切にしてるなら簡単に渡さない方が良いですよ。本も。…あの人も」


 本読んだら眠たくなってきた。栗田さんに本を返してリビングを後にする。他人をリビングに1人残して。でも栗田さんは変なことしなさそう。なんて過信、蒐に見られたら怒られる。


 ベッドにダイブして目を閉じたらそのまますうっと意識も記憶も止まった。


.


「美輝も何か一つくらいできればな」


うん。もっともっと頑張るよ。できるようになったら、凄い子だって頭撫でてくれる?


「無理よ。こんな鈍臭い子が何になるの」


できるってば。



「いっそのことあいつが死んでくれたら」


じゃあ俺が。皆喜んでくれるよね。


「お父さん」


頑張ったよ。褒めて。愛して。


「こんなこと誰も頼んでない!」


望んでたくせに。


「来るな!!」



“人殺し”
 



「っ!ハッ…ハァ…ッ」
 



 バチンと目を開けた瞬間首を絞められたような息苦しさを覚えた。

 息苦しさに任せ起き上がろうとするとぐっと何かが体の前で引っかかってベッドに戻される。目線だけ左にやると桃良さんが横から抱きつく形で寝てた。


 仕事終わってたんだ。酷いクマ。てか息苦しかった原因絶対こいつじゃん。

 
腕を解こうとしたら力いっぱい引き戻された。ボスンとベッドに背中をぶつける。


「起きてんなら離せ」


「…本、読んだ?」


 寝起きの掠れた声が耳元でする。あの女…わざわざ言わなくていいのに。
 



「うん」


「どう、だった?」


「難しかった」


「そっか」


 桃良さんは噛み締めるように呟いたあと、ぎゅっと抱きしめ俺の耳に顔を擦り寄せた。ふふっと笑う柔らかい息がかかる。


「ねぇ、今日もお仕事頑張ったよ。お疲れ様のキスは?」


「勝手にしてろ」
 



 背中を向けるように寝返りを打ってまた目を閉じる。
では遠慮なく〜とイタズラでコロコロ楽しそうな声の後、服の下の腹にすうっと手が伸びてきた。
 



「なんでだよ!」


「勝手にしてろって」


「何してもいいとは言ってない!」


 
勢いよく桃良さんの方を振り向くとやっぱりイタズラに笑ってた。
顔を見合せ二人クスクス笑って、お腹が空いたけど起き上がるのも面倒だとまた寝て。


 こんなくすぐったい日常を夢見てるなんて言ったら笑われるかな。

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