第1章②

幾晩も、家の中に怒号と愚痴が響いていた。

「だいたいアンタが……」

「そんな……言ったって……」

「あの親が……」

「葬儀も……」

 二階の由紀夫の部屋にも、父母の怒号や反駁の声が聞こえてきていた。

「終われ、終われ、早く終われ」

 由紀夫は布団にくるまりながらひとりごちた。あらゆるものが自分と周囲を苦しめ続けている。しかも、その原因ときたらすでに死んでいて、誰にもどうしようもないのだからたちが悪い。

 母の怒りも、父の憔悴も分かる。長らく重荷になっていた肉親が死んだ。挙げ句に死んだと思えばこのざまだ。誰が平常心を保てようか。

 だが、こちらも続く取り調べや、同級生たちの好奇の視線にさらされ、疲弊しきっているのだ。家の中でまで疲弊するのにはうんざりしている。

 気を抜くとため息がこぼれる。妹は家の中では押し黙ったままだ。心を閉ざすことをすっかり覚えてしまったのだろう。自分も辛いが、性狷介な妹は、更に好奇の視線にさらされ、さぞ気分を概しているに違いない。通っている中学校は自宅からほど近いのだ。

 この土地が嫌いだ。

 荒涼とした海は、見るたびに七尾の心を同じように荒らした。波が小汚い藻を浜辺に残すように、七尾の心に言いしれない不快感をもたらすのだ。

 住民はいずれも陰湿な田舎者の典型例で、ひねこびた痩せ大根のような年寄りと、考えることを知らないとしか言いようのない野蛮な若者しかいない。繊細な精神の持ち主はみな、この土地に耐えきれず、出て行くのだろう。自分とてこの土地に根など張れやしない。

 しかし、どこへ行くというのか。

 自分も父母も、この土地にしがみついて生きていくしかない。家があり、親戚縁者がおり、日々の暮らしがある。

 警察から疑われようが、自分たちが犯人でないのなら追い出されることもない。無罪が証明されれば近所の好奇の目も別のものに移るだろう。

「いっそのこと、追い出してくれればいい」

 そう吐き捨てた。この土地に残らなければならないという憂鬱感と、出ていきたいという反抗心が七尾の中に両立していた。この二つがないまぜになり、身動きを取れなくしている。頭の中でぐるぐると混ざると、あらゆる思考がその下に沈殿してしまう。そして、最後には倦怠となって浮かび上がり、七尾の精神と活力を奪い尽くしてしまうのだ。

 数か月前まで、七尾の肉体も気力も横溢していた。庭先で竹刀を百回振ろうと、夜を徹して映画を何本見ようと、短い自由時間の中で、有り余る体力に物を言わせて行えたものだ。だが、今や階下に降りて行って両親に静かにしてくれと嘆願する気力もなければ、眼の前の事態から目を背けるために趣味嗜好に溺れる体力もない。

 県外の大学に行くか。いや、こんな警察の監視下でよその県に進学できるのだろうか。それに一人暮らしともなれば金もかかる。決して貧しいとも言えないが、財産家でもない以上、父母が首を縦に振るかどうか疑わしい限りである。遺産相続の件が明らかに長引く以上、全く見知らぬ土地で住むだけの予算が確保できる目処はない。

 やはりこの地で生きていくしかないのか――それでは、生きながらの死ではないか。

 身を横たえながら七尾は生まれて初めてそう思えた。

 


「荷の整理にも来んのか」

 翌朝、ケアハウス「秋声」において七尾梓が吐き捨てた。

 怒りは祖父の荷の整理にすら来ない兄たちの一家に向けられているようだ。

 七尾自身は、父である梓の怒りなどどこ吹く風とばかりに、部屋の整理を開始する。時折、かねてからそうだったじゃないか。と呆れた視線を小声でつぶやき続ける父に向けた。

 祖父の介護度が上がってからというもの、伯父一家はケアハウスに祖父を放り込み、めったに顔を出さなかったようだ。挙句の果てが、警察の家宅捜索が終わり、ケアハウスの捜査が保留になったにもかかわらず、祖父のあてがわれていた部屋の整理にすら来ない始末である。

 本家の家長が呆れたものだ、というのは七尾自身同意見ではある。しかしいつまでもグチグチと自分のいる場所では不平を口に出さないでほしい、と父にも呆れた思いを抱いた。

 南の庭に面した祖父の部屋は、歩行の妨げになるような段差や出っ張りなどの見受けられない、典型的な介護施設の部屋であった。

 部屋付きのトイレに至るまで小綺麗にされた部屋の清潔さを保つのは母の仕事であった。いつも私ばかり掃除している、と母がこぼすのも理解できる清潔さである。

 介護用ベッドやテレビなど、施設に寄贈することを決めたものには「寄贈」と書かれた付箋を貼り付けていく。部屋着や布団などは用意したゴミ袋に放り込んでいく。寄贈品や施設の設備を職員に引き渡したり、廃棄するものは廃棄施設に持っていくために車に積み込むのは父の作業だ。

 順調に荷の整理が終わっていく。そんな中で、七尾はふと本棚に目を遣った。施設備え付けの本棚には、本が一冊もなかった。おや、と七尾は疑問に思った。

 かつて見舞いがてら祖父の部屋に来たときには、何冊も本が書架に並んでいたはずだ。思い出せるだけでも箱入りの専門書や、「◯◯研究会」と背表紙に記載された薄い小冊子など、七尾の目に馴染みのない専門書の類がそこそこあったはずである。

 それらが一切ない。

 本棚のある一角には自分も父も手を付けていなかったはずだ。職員も警察の捜査がある関係上(結局ケアハウスへの捜査は沙汰止みになってしまったが)、部屋の中には手を付けていなかった。

 では誰が。そんなことを思いながら本棚に手を遣る。

 綿埃が薄く棚板や底板に積もっている。本が無くなって少なからぬ期間、放置されていたようだ。

 次いで本棚の最下部、幕板に手を遣る。手前側に指を入れるスペースが有り、横広の引き戸になっているタイプである。

 ズズ、と引き出してやれば、こちらは手付かずだったのか、一冊の小冊子と四枚のメモが放置されていた。



・『「人体全書」のこと、O大学狼谷氏に連絡』『狼谷氏連絡つく。情報を更に引き出すべし』

・『「若葉」誌記載の当該作品、「人体全書」と照会』

・『階位の相続、由紀夫に。遺言書にて別記。「人体全書」の件話すこと』

・『「人体全書」複数冊存在か。狼谷氏より情報を引き出さねばならない』


 なんだこれは。と七尾は困惑した。乱れた字で度々「人体全書」と「狼谷氏」という文字の躍るメモは、どうやら祖父の書いたものらしい。まるで探偵か何かの捜査記録のごときメモ書きは、あの祖父の書くような代物には到底見えなかった。それに、「階位の相続」とはいったいなんなのか。

 メモを棚板に置くと、幾冊かの冊子に手を遣った。『若葉‐O大学文芸誌‐』とタイトルの記載されたその小冊子は、どうやら大学が頒布している品のようだ。

 ページを捲り、目次に目を遣った。「リヴァプール探索記」や「『太平記』注解‐婆娑羅の記述を中心に‐」などの大学教員の紀行文や小論文、「緊急転生〜閉ザサレシ世界ノ事ナド〜」のような学生の小説などが併記されており、不統一の妙が七尾の目を滑らせた。

 明らかに祖父のものと思われる名前の記載はなく、そもそも、先程のメモといい、祖父がO大学となんの関わりがあるのかと疑問に思った。

 ふと、ある一人の作品名が七尾の目に止まった。



狼谷 龍彦『人体全書』



 ……どうやらこれが件の「人体全書」らしい。著者名の「狼谷 龍彦」というのが、「狼谷氏」のようだ。

 他の作品には目もくれず、すぐさま当該のページを開く。そこには、所属学生のものと思しき人物の書いた小説が無味乾燥な字体で印刷されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る