第1章①

 新宮警察署から一人の少年が、緩慢な足取りで外へと出てきた。

 署内の冷え込んだ空気に慣れた肌に、初夏の日差しはことのほか熱気を感じさせた。じっとりとまとわりつく空気を払うかのように、少年――七尾由紀夫は歩みを進める。

 七尾は不愉快の極みにあった。多忙の中、警察まで幾度も足を運んでいた。今日に至っては朝食すら口にしていなかった。

「糞が」

 思わず心のなかで毒づく。貴重な休日を消費してまで、代わり映えのしない問答を繰り返す。元々長いとは言えない七尾の堪忍袋の尾は切れそうになっていた。

 二月前、七尾定乃助が死んだ。殺されたのである。

 第一発見者は七尾由紀夫であった。滴る血が床と言わず、壁と言わず、祖父の部屋を汚していた。滴った血が部屋の前の廊下にまで流れて、庭に滴っていた。じっとりと鼻を打つ、文字通り「血なまぐさい」臭いと、心地よい春の早朝の空気が奇妙に混合して、肌に纏わりついていたのを、七尾は未だに覚えている。

 そこからは怒涛の日々であった。家中を警察が調べ尽くし、家族はみな執拗に警察に尋問じみた取り調べを受け続けた。ことに、第一発見者だった自分は幾度となくこの場所に足を運ぶ羽目になった。

「何時ごろに遺体を発見したか」「祖父を最後に見たのは何時か」……幾度となく同じ質問を繰り返し、七尾に訊く。

 ゆっくりと精神がきしみ始めたのを七尾は自覚し始めた。まるで最初から犯人だと決めつけられているかのような、非人間的な扱いだと日毎に怒りも募り始める。

 しかし、そんな煩わしいことですら、まだマシと言えるような事態が七尾家に巻き起こった。

 遺産相続に関する揉め事である。

 連日、父と本家を継いだ伯父とが互いの家を行き来しては、相当に揉めているようであった。居間から怒鳴り声が絶えず、伯父が帰ったあとは、度重なる警察の取り調べや近所からの視線、元来からの祖父の介護や本家との軋轢で生じたストレスを、ここぞとばかりに母が父にぶつけた。

 母は七尾家に嫁入りしてから、随分と伯父一家や、彼らと同居している祖父母とは仲が悪かった。ことに数年前まで生きていた祖母との折り合いが悪く、介護度の上がった祖父をケアハウスに入れてからは耐えに耐えていた。

 伯父一家は立ち枯れた杉の木のごとくやせ細った祖父をケアハウスに放り込んでから、祖父へすっかり無関心になった。つい先日まで同居していた肉親に対するものとも思えないほどの冷たい態度に、由紀夫自身慄然としたことを覚えている。

 そのしわ寄せを一身に受けたのは母であった。だからこそ母の怒りが間欠泉の如く吹き出すのは理解できる。父が祖父の介護にあまり関われない分、母がそれを補う必要があったからだ。祖父の部屋のベッドシーツを変えるのも、汚物で汚れた下着の交換も、介護士に賂いを用意するのも大半は母がやったからだ。

 仕事をこなし、炊事を行いながら介護をする母の苦労は理解していた。しかし由紀夫も妹も、祖父には関わりたくなかった。

 幼少期から、母は祖父母のことも伯父一家も忌み嫌っていたからだ。

 理由は知らない。世間一般にある嫁と姑の争いだろうと由紀夫は放置していた。知っても詮のないことだ。本家の話題が出るだけで、母の機嫌が指数関数的に悪化していくのだから、兄妹揃って話題にすることも、関わることすら忌避するようになった。

 きっかけは、おぼろげながら覚えている。

 十歳のころだったように思う。由紀夫は妹と一緒に本家の方まで遊びに出かけた。

 由紀夫の家の周囲にはさしたる遊び場もなかった。ひなびた駄菓子屋が二軒、さして広くもない公園がひとつあるぎりで、由紀夫も妹も、退屈に耐えかね、軽い気持ちで足を運んだのである。

 荒涼とした海に面した我が家よりも、やや内陸に面した本家のほうが、広かった。そもそも、兄妹揃ってあまり同世代の子どもと遊ぶのを好んでいなかったのである。それでいて、自宅にはやりあきたゲームや、読み飽きた本ばかりが転がっていた。

 数時間ほど経って、母が迎えに来た。車に乗せられ、家に帰り着いた途端に母から大音声の叱責を食らった。

「あんな家に、行きやがって!」

 兄妹揃って頬を張り倒され、頭まで殴られたのをよく覚えている。なぜ殴られたのか。なぜ怒鳴られたのか。そんな理屈もなくひたすらに痛めつけられる。そこに合理的な理由など見当たらなかった。母の、本家に対する何らかの憎しみが幼心に見て取れるだけであった。

 それ以来、母の前で本家の話を口にするのも、ましてや本家の周囲に足を踏み入れるのも

忌避するようになった。

 血縁とは、このように嫌なものなのか。

 由紀夫にとって血とは、あるいは血縁とは、己が身に纏わりつく夾雑物に過ぎなかった。かつての体験から、由紀夫はそう思うようになった。家族も、血族も、すべてが好ましくない枷のように思えてならなかった。

 この家が、土地が嫌いだ。

 何をやろうとも振り払えない古いものが、のしかかり、纏わりつく。

 ソレはまるで、あの血なまぐさく、生暖かい空気のように思えてならなかった。

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人体全書 佐々木 藍青 @purelove

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