人体全書

佐々木 藍青

プロローグ

……失う者は全てを失い尽くし、得る者は望む全てを得るであろう。(とある作家の言葉より)




 床は血に塗れていた。

 半ばドアの開かれた客間の床から広がる赤黒い血は、廊下から縁側にまで達してぽたり、ぽたりと地面に滴り、庭を汚していた。少年は息を呑んだ。ぬるい春の空気は、忌避感を覚えさせる臭気と入り混じって彼――七尾由紀夫の肺に達する。

 七尾は思わず一歩後ずさる。部屋にいるのは祖父のはずである。昨日ケアハウスから家にやってきて、一緒に夕食を取った。毎週土曜日は我が家にやってきて、夕飯の席を囲み、まともに通じぬ会話を父や母が一方的にする。そして時間が経てば銘々が自室に引き上げてしまう。

 おやすみ、と何の気無しに挨拶をしてもムッスリとした表情をして、自分に返事もしなかったのを覚えている。

 いつものことだ。七尾は何も感じない。期待すらしていない。そんな態度は自分に対してだけではなかったからだ。父も母も妹も、同居していたにも関わらず、介護度が上がった途端に祖父をケアハウスに押し込んだ伯父一家だって同じだろう。

 死んでもなんとも思わない。あの禿げ上がった頭の老人は、七尾にとっては半ば赤の他人だ。しかし……

 意を決して一歩進む。ギシ、と床がきしんだ。緩慢なギシ、ギシ、という音を七尾の耳はまるで他人事のように聞いていた。


 見てはならない。すぐに父を呼べ。救急と警察に通報し、母と妹を部屋から出さないようにしなければ。こんなモノを見せてはならない。見てはならない。


 理性が幾度となく頭の中でそう叫んだ。見るな。見れば、お前は何かを失う。

 だが理性の声は負けた。好奇心ではない。祖父を心配するという身内の情でもない。何かが七尾の手を、足を動かしていた。

 ギシ、と十歩と歩まず部屋の前にたどり着く。血を踏まないギリギリの位置。七尾はドアに手をかけ、ゆっくりと部屋の内側へと押した。

 むわり、と言いしれない臭いが七尾の顔にぶちまけられる。薄暗い部屋はまるで異世界のように思えた。

 ギギ、とドアを開け放つ。

 七尾の背後の陽光が、床の上に伏すナニかを照らした。

 うつ伏せに倒れたソレは、一目で生きていないと思わせるものだった。見開かれた七桜の目は、背中にいくつもの刺し傷を受け、血溜まりの中で祖父だったモノが床に倒れ伏す光景を焼き付けていた。

「ああ、ぁ――」

 思わず七尾の口から恐怖ともつかぬ声が漏れ出る。

 ドサ、と尻もちをつく。手のひらや臀部に触れる半ば膜が張った冷たい血液は、もはや生きた者の体に流れていた生命の源ではない――死の証明だ。

 そう認識した途端、叫び声が上がった。壊れたスピーカーのように上がる悲鳴を、七尾は止めることができなかった。

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