第十四章〜運命〜
何かが動く音がした。目を覚ますと上光さんが居ない。辺りを探すと何処かへ行こうとする上光さんが居た。上光さんは一瞬考え込むような様子を見せたが、そのまま外へ出て行った。嫌な予感がした。もしかしたら開聞岳に向かおうとしているのかもしれない。時計を見ると夜の八時だ。さっきよりも雨と風は激しくなっている。自分も急いで後を着いていくことにした。急いでいたのでレインコートも傘もない。上光さんも同様だ。自分の存在に気付いたらきっと引き返すだろう。それは上光さんにとって心残りを作ってしまう原因になる。それは避けたかった。上光さんの少し後ろを歩いて、追うことにした。誰一人として外に出ている人はいない。それもそのはずだ。激しい雨で目の前がほとんど見えない。着いていくだけで必死だった。
ようやく開聞岳が見えてきた。海は激しく荒れている。近付くことは危険だろう。上光さんは止まってただ開聞岳を見つめ続けている。自分はそれを少し遠くから見ていた。本当は声をかけたい。帰りましょうと声をかけたい。でもそれは自分の我儘だ。ただ見守るだけにした。しかし、衝動は抑えられなかった。もう少しだけ近付きたい。その一心だった。徐々に距離を縮めた。激しい雨と風で辺りは見えづらいし、音も聞こえない。そのため、上光さんは自分の存在に気付かなかった。
手を伸ばせば触れるくらいに近付いた。上光さんが後ろを振り向けば自分が居ると分かるだろう。ただ上光さんは開聞岳を見つめ続け、決して振り向かなかった。数十分が経ったが、上光さんは微動だにしない。服は水で重くなり寒い。それでも上光さんを置いて帰ることは出来なかった。このまま何も起こらず、一緒に帰りたい。それがただ一つの願いだった。上光さんは海には近付こうとはしなかった。ただ開聞岳を見つめ続けていた。一瞬、開聞岳の頭頂付近が光った気がした。雷だろうか。またしても嫌な予感がした。タイムスリップした瞬間を思い出してみた。あの時も空が光っていた。次の瞬間には上光さんは居なくなってるかもしれない。そう思うと居ても立っても居られなくなった。
「上光さん」
ついに声を出してしまった。上光さんは振り向かない。もう一度大きな声で叫んだ。
「上光さん」
上光さんは微動だにしない。聞こえていないのだろうか。
今度は名前を呼ぶと同時に上光さんの腕を掴んだ。上光さんは驚くような顔で振り向いた。
「あおいさん。何故。寝てる間に出て行こうと思ったのに。起きてたのかい」
声が聞き取りづらい。殆ど何を言ってるか分からない。とにかく、今伝えたいことを伝えようと思った。きっと上光さんも聞こえていないはずだ。今なら何を言っても良い。雨の音だけが耳をつんざく。
「上光さん。わたしは上光さんが大好きです。今までもこれからもずっと一緒に人生を歩んでいきたいです。上光さんと出会えたことが幸せです。だから行かないでください。お願いします」
雨の音だけが鳴り響く。目からは涙が溢れ、止まらなくなった。
「僕もあおいさんのことが大好きだよ。出会ってくれてありがとう。僕は」
何か話しているようだが、殆ど何も聞こえない。
「僕は本当はあおいさんとずっと一緒に居たい。初めは過去に戻ろうと思ってこの場所に来た。開聞岳を眺めている間、色んなことを考えた。特攻隊員として死ぬことが仲間を裏切らない手段だと思っていた。お國の為に死ぬことが自分の仕事なんだと。それで良いと思っていた。でも、今は違う。今僕はあおいさんを裏切りたくない。あおいさんだけを残して死んではいけない。この時代であおいさんを守り続けたい。僕が未来に来たのはあおいさんを幸せにするためなんだと今は思う。だから」
何度かあおいさんと言っているのは聞こえたが、何を言っているかは分からない。ただ上光さんの目から涙が溢れている気がした。そんな気がしただけで雨の滴かもしれない。
「上光さん、一緒に帰りましょう」
決して言ってはいけない言葉だった。
「一緒に帰ろう。今日こうしてあおいさんが一緒に来てくれて良かった。ありがとう」
かすかにありがとうという声が聞き取れた。上光さんが手を握ってくれた。温かい。
「帰ろう」
たしかに上光さんはそう言った。ハッキリと聞こえた。とても嬉しかった。また一緒に家に帰れる。それだけで幸せだった。上光さんは手を握り続けてくれていた。
「少しだけ待っていてほしい」
上光さんは手を離し、再び開聞岳のほうを向いて深く敬礼をした。そして、こちらに戻ってこようとした。上光さんはたしかにこちらを向いて笑っていた。その顔を見て自分は安心した。また一緒に暮らせると。ただ嬉しかった。
しかし、そんな幸せな瞬間は束の間だった。空が光った。そして、またピカッと光った。目の前が見えない。頭がぐらぐらする。不安になった。
「上光さん」
とっさに上光さんの名前を大声で呼んだ。
「あおいさん」
上光さんも自分の名前を呼んでいる。何度も何度も自分の名前を呼んでくれている。しかし、強い光を見たからか目がよく見えない。またしても空が光った。今度は今までで一番よく光った。その瞬間から上光さんの声は聞こえなくなった。辺りはまた暗くなった。少しずつ目が見えるようになってきた。雨は止み、風も吹いていない。さっきまでの雨が嘘のようだ。すぐに上光さんを探した。どこにも居ない。目の前に居たはずなのに。動悸がした。
「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。さっきまで目の前に居たのに」
どこを探しても上光さんは居ない。一時間近く探したが、何処にも居なかった。暗い海を前にして途端に怖くなった。深い海の底に落ちていくような気分だった。もしかしたら、先に家に帰っているのかもしれない。頭は混乱した。
家に着いても上光さんは居なかった。信じたくなかった。上光さんは忽然と姿を消してしまった。眠れぬまま、朝を迎えた。ただいまと帰ってくるのではないかと期待した。しかし、帰ってくることはなかった。夜になっても、次の日もまたその次の日も。そして、一週間が経った。上光さんはついに帰って来なかった。待てども待てども帰って来なかった。すでに上光さんはこの世界に存在していないのかもしれない。
鬱が酷くなり、心療内科に行くことにした。誰かにこの体験を話したかった。全てを医者に打ち明けた。自分が話す間、医者はカルテを書き続けた。その間、こちらを見ることはなかった。全てを話し終わると医者はこう言った。
「辛かったね。重度の統合失調症だ。君は妄想の世界を生きている。そんな話あるわけないんだよ」
呆然とした。医者に話したのが間違いだった。信じてもらえるわけがない。いや、全ては自分の妄想だったのだろうか。呆然としたまま家に帰った。たしかにタイムスリップなどおかしな話だ。上光さんという存在自体、最初から自分が作り上げた妄想の人物だったのかもしれない。そもそもタイムスリップなんて出来るわけがない。そうだ。自分は統合失調症という病気なんだ、全部ただの妄想だったのだ。そう思うことで心は落ち着いた。自分は幻覚を見ていたのだ。この悲しい気持ちも全て幻だ。幻覚の世界や人物に一喜一憂していたのかもしれない。全て忘れてしまおう。そう思った。
思えば、上光さんとは写真を撮らなかった。上光さんは写真を撮られるのが苦手だった。しかし、これも都合の良い妄想だ。そもそも、最初から存在しないのだ。だから写真が存在しないのだ。では、部屋に置かれた軍服は一体何だろうか。茶碗もコップも全て二つある。歯ブラシだって。上光さんは存在したのではないのか。それとも自分が創り上げた幻想の中の人物なのか。考えれば考えるほど、頭が混乱して分からなくなった。こんな話あるわけがないのだ。医者の言う通りだ。全ては自分が生み出した妄想なのだ。
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