第十三章〜台風〜
雨と風の音で目が覚めた。ネットニュースを見ると台風の文字が並んでいる。今晩にも台風は近づき、雨や風が激しくなるようだ。リビングに行くとすでに上光さんは起きていた。
「おはよう、あおいさん。台風が接近していて仕事が休みになってね。朝から雨と風が凄い」
「こんな日は温かいものでも飲んでゆっくりしましょう」
温かいお茶を入れ、一緒に飲むことにした。
「美味しい。温まるよ」
上光さんはほっこりした表情をした。しかし、それは一瞬だった。
「とても言いづらいことがある。台風が酷くなる頃、開聞岳に行こうと思う。これが最後のチャンスのような気がするんだ。あの日の天気と似ているし。危険だからあおいさんは家に居て欲しい。また帰ってくるかもしれないしね。どちらにせよ今生の別れとは思わないでほしい。僕たちはいつも何処かで繋がってるはずだ。僕はそう信じてる」
話を逸らすつもりで温かいお茶を入れたのに結局この話になってしまった。
「行ってしまうのですね。上光さんが決めたことなら仕方がないです。ただ自分も着いて行きたいです。もしも、上光さんと二度と会えないと思うと家から見送りは出来ません。最後の瞬間まで一緒に居たいです」
「僕が過去に戻れたとしたらあおいさんは一人になるじゃないか。台風が近づいてる時にあそこへ行くのは危険だよ。前みたいに海で溺れてしまったら次は本当に死んでしまうかもしれない。帰りだって危険だ。申し訳ないが、来ない方が僕は嬉しい。あおいさんの身の安全のためだ」
「家で待つことは出来ません。心がざわついてそれどころではありません」
「それはいけない。今でもこんなに雨と風が酷いのに僕が行く頃にはもっと酷くなっている。外出したら危険なレベルなのにあおいさんを外には出せないよ。何かあったら僕のせいだ。そんなことなら僕も喜んで過去には戻れない。頼むよ」
上光さんの願いは自分に家に居てほしいことだ。複雑な気持ちではあるが、上光さんの願いを叶えてあげたいと思った。心配事をせずに開聞岳に行ってもらいたい。
「どうしても着いて行ってはいけないですか」
「一緒に来るなら僕は穏やかな気持ちで帰ることが出来ない。ずっとそのことが心のしこりとなって残る。自分勝手で申し訳ない」
「そんな風に言われると着いていくことは出来るはずがありません。上光さんの悲しむ顔は見たくありません。家で待っておきます」
「良かった。これで安心だ。ありがとう。あおいさんはずっと元気で居るんだよ必ず」
上光さんは一つため息をつき、安堵する様子を見せた。その姿を見て自分も安心した。そう言うしかなかった。上光さんの困った表情を見ると心が痛んだからだ。
夕方には台風が接近してくるだろう。それまでまだ時間はある。もし上光さんが今晩過去に戻ってしまうなら、今この瞬間が二人で最後に過ごせる時間ということになる。そんなのは信じたくないが、後悔はしたくない。最後だとして一体何をしたいだろう。考えても何も浮かばなかった。何か特別なことをすると涙が出てきそうになる。結局何も意識せず、ただ一緒に過ごすことにした。何気ない話をしたり想い出話をしたりして時間は過ぎた。気付けばお昼を過ぎていた。
低気圧だからだろうか。頭が痛くなってきた。立つと頭が白くなり、ふらついた。異変を感じた上光さんはすぐにお白湯を入れてくれた。
「あおいさん様子がおかしいけど大丈夫。お白湯でも飲んで温まって。少し横になるかい」
「ありがとうございます。ポカポカします。頭が痛くて。台風が来てるからですね、きっと。少し横になります。最後になるかもしれないのにごめんなさい」
「そんなことはどうだって良いんだよ。自分の体調の事だけを考えて。頭を冷やすものなかったかな。頭を冷やすと少し良くなるかもしれない。少し待っててね」
走っていく上光さんの足音が聞こえた。すぐに戻ってきた。
「はい、これ。氷をタオルで包んできたよ。冷たいから僕がこうやって持っといてあげるよ。少し眠ると良い。そうすると良くなるはずだ」
上光さんはおでこに氷の入ったタオルを当ててくれた。そのままおでこに置くと氷が重く冷たい。そこを加減して上光さんが手で少し浮かしてくれている。手は痛くならないのだろうか。優しさが身に染みた。氷の入ったタオルを持つためだけにずっと側にいてくれた。目を開けると微笑んでこちらを見つめる上光さんがいる。こんなに幸せなことはない。このまま時間が止まれば良い。
上光さんと一緒に居るとこう思うことばかりである。時間が止まれば良い。別れなど要らない。今は上光さんが側に居てくれるだけで心は満足で幸せだった。上光さんが居ない世界など悲しいだけだった。せっかく大事に思える人と出会えたのに運命は残酷である。兄だけでなく上光さんまで奪ってしまうのか。なぜ自分は大事な人と人生を歩んでいけないのだろう。これが自分の運命なのだろうか。上光さんが過去に戻ってしまうかもしれない。それは恐怖以外の何者でもなかった。過去に戻るだけならまだ良かった。上光さんは過去に戻ると特攻隊員として死んでしまうだろう。生きていてさえ居てくれたら時代が違えどそれで良い。しかし、現実はそう甘くなかった。なぜ自分たちの運命はこんなに悲しいのか。いまさら運命を変えることは出来ないのだろうか。自分の人生を嘆いた。
上光さんの心境はどうなのだろうか。戻ってもすぐ死ななければならないという現実を本心ではどう思っているのだろう。自分よりも上光さんのほうが辛いに決まってる。そう考えると自分は我慢しなければならないと感じた。自分は明日も生きることが出来る。生きることが出来る保障はないが、死の宣告は受けていない。上光さんは死の宣告を受けているも同然だ。それが楽しみなわけがないだろう。しかし、それが上光さんの運命なのだ。我儘を言って上光さんを困らせてはいけない。ただ幸せな気持ちで見送りたいと思った。上光さんの心はもう決まっているのだ。過去に戻って特攻隊員として死ぬ。それが仲間を裏切らない行為だと信じている。仲間を裏切りたくない心境は言葉の端々からも伝わってきた。この時代に引き留めておくことは上光さんの良心が許さないだろう。上光さんは正義感のある人間だ。そういうところも好きだった。
今日の天気とあの日の天気は酷似している。だからこそ、心はざわついた。本当に過去に戻ってしまうのではないかと。不安で不安で仕方がなかった。どんどん頭の痛さは酷くなる。考える力もなくなっていき、いつの間にか意識を失うように眠っていた。
次に目が覚めた時は辺りが暗くなっていた。目を開けると隣にまだ上光さんが居る。氷の入ったタオルは上光さんの手の中にあった。すでにベチャベチャになっている。上光さんは綺麗な顔をして眠っている。このまま眠っていてくれたら台風が過ぎ去るのではないか。そんなことを考えた。自分は卑怯だ。起こさないことにした。このまま一緒に寝てしまおうともう一度眠ることにした。このまま一緒に朝を迎えたい。そして、台風も過ぎ去っていてほしい。ただの現実逃避かもしれない。上光さんが過去に戻るかもしれないという出来事を忘れたい一心だった。眠っている時はそんな現実を忘れられる。痛みも悲しみもない。ただ深い眠りについているだけ。これは死と似ているのかもしれない。死んだら産まれる前に戻るのだろう。そこには自己というものはすでに存在しない。何を感じることも出来ない。ただ無だけが広がっている。
そう考えると今こうして生きて色んな感情を感じられることが愛おしく感じた。悲しみでさえ生きている実感に思えた。上光さんの手を握った。温かい。今上光さんは生きている。愛おしい存在だ。手を握ったまま、もう一度目をつむった。心の中は幸せで満たされた。先のことはもう考えなくて良い。ただ目の前に居る上光さんの存在を愛でられたらそれで良い。生きるとは今を一生懸命生きることなのかもしれない。先のことを考えても未来は誰にも分からない。それなら今の幸せを見つめて、今をより良くする行動を取れば良いのではないだろうか。今自分に出来ることは上光さんの手を握り幸せな気持ちで眠りにつくことだった。今たしかに自分は幸せな気持ちである。それで良いのだ。激しい雨と風が窓を叩きつける音がする。今はその音でさえ落ち着く。今が良ければそれで良い。たしかにそう感じた。もう自分は何も望まない。今上光さんが目の前に居るだけで良いではないか。そんなことを考えていると上光さんが微笑んだ。何か楽しい夢でも見ているのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます