第十二章〜挑戦〜
引っ越してきてから二ヶ月が過ぎた。上光さんはすっかりこの時代に慣れてきた。初めてスーパーに行った時は目を仰天させていたが、今では仕事帰りに一人で買い出しに行ってくれる。スマートフォンも使えるようになった。
主に仕事関係の連絡に使ってるだけだが、時々音楽を聞いている。音楽と言っても当時の歌や軍歌である。軍歌を聞いている上光さんの姿を見るとやはり中身は当時のままなのだと感じる。上光さんに李香蘭を教えてもらい、最近は自分も聞いている。李香蘭が歌う浜辺の歌がお気に入りである。休みの日にはよく本屋に足を運んでいる。この二ヶ月だけですでに十冊は読んでいる。いつも本の感想を楽しそうに聞かせてくれる。上光さんは今の時代を楽しみ始めているのかもしれない。そう思うと嬉しかった。
初めての給料で万年筆をプレゼントしてくれた。人から何かをプレゼントしてもらうことがなかった自分にとって上光さんからの万年筆は宝物になった。万年筆を手に取り、時々上光さんに手紙を書くこともある。仕事で会えない時間が多い分、手紙は良い交流の手段になっている。こんな風に現代に馴染んできた上光さんを見て自分は安堵していた。しかし、それは大違いだった。上光さんは決して過去を忘れてはいなかった。寝る前、一緒に夜空を見るのが習慣になっていた。そんな時、上光さんは話してくれた。
「僕はもう帰れないだろう。実は仕事帰りに何度か開聞岳に寄ったことがある。天気の悪い日なら帰れるかもしれないと雨が降る日は必ず行くようにしてる。しかし、何度行っても何も起こらない。ただ時間が過ぎるだけだ。雷が酷い日にも行った。それでも何も起こらなかった。僕はいよいよ悲しくなった。あそこに行くたび、仲間を思い出す。自分は一体何をしているんだと。呑気に働いている場合なのかと。本来なら僕はもう戦死してるはずなのに。帰ることは決して諦めない。それが仲間を裏切らない行為だと思うんだ。帰ることを諦めた途端、自分は何者でもなくなる気がする」
予想外だった。帰りが遅いのも開聞岳に行っていたからなのかもしれない。もしも過去に戻れていたら上光さんは二度と帰って来なかったのだ。そう考えると悲しい気持ちになった。自分に何も言わずに開聞岳に行っていたことも悲しかった。
「今後も開聞岳には通い続けるよ。ある日、突然帰れるかもしれない。あおいさんとの別れは悲しいが、仕方のないことだ。もしも僕が帰って来なかったら元の時代に戻れたんだと喜んでほしい。そう思ってもらえると僕も嬉しい。僕はあおいさんと出会えてこの時代を少しでも生きれたことが嬉しいんだ。日本は平和になったんだと知ることも出来たしね。冥土の土産だ。そうして僕は特攻隊員として死んでいく。それで良い。あおいさんのことは死んでも忘れない気持ちでいる。最後の瞬間まで想い出を胸にしまい込んでおくからね。だから、もし帰って来なくても悲しまないで。あおいさんが悲しむ顔を想像するだけで胸が痛い。それだけが心残りだ。僕は幸せだった。今はたしかにそう断言できる。でも僕が死ぬことであおいさんが悲しむならそれは心残りだ。出会ったことが申し訳なく感じる。僕と出会わなければあおいさんは悲しむこともなかったはずだ」
上光さんは視線を自分から夜空に移した。
「上光さんは本当にそれで良いのですか。自分は上光さんと今この時代を一緒に生き続けたいです。もう人が死ぬのを見たくはありません。わたしの兄は自殺しました。上光さんと兄はよく似ています。最初は兄と似ていたので親近感が湧きました。でも今は違います。一人の人間として上光さんを大事に思っています。そんな上光さんが死ぬと思うと悲しいです。大事な兄も失ったのに上光さんまで失いたくないです。我儘を言ってごめんなさい。でもこれが自分の本当の気持ちです。帰らないでください。もう過去のことは忘れて一緒に今を生きてほしいです。それがわたしの願いです」
上光さんは複雑な表情を浮かべた。
「お兄さん、自殺をしたんだね。ごめん、こんな話をさせてしまって。思い出してしまったね。本当に申し訳ない。僕もあおいさんの側に居続けてあげたい。今の話を聞いてその気持ちは余計に高まった。しかし、僕は特攻隊員として死ななければならない。それが僕の運命だと思って最後の時を待っていた。戦死することだけが自分の人生の最後の目標だった。死んでいった仲間を裏切ることは出来ないと。大事な人達を守るために死んでいくんだと。それは仕方のないことだと思っていた。ただ今の話を聞くとあおいさんの側を離れることはとても心残りだ。どうすれば良いか分からなくなった。本当は僕もあおいさんとずっと一緒に居たい。家族のような気がしてるんだ。僕が居なくなったらあおいさんは一人になるじゃないか。そんなこと僕には」
そこで上光さんの言葉は終わった。自分も言葉が出て来なかった。
「重い話になってしまったね。遅くなったからそろそろ寝るよ。おやすみ。また明日」
上光さんは軽くお辞儀をし、部屋に戻った。神経が昂って眠れる気がしない。今日は心が落ち着くまで月を眺めていよう。月はいつも荒んだ心を澄んだ心に戻してくれる。上光さんには幸せになって欲しい。一瞬、流れ星が流れた気がした。とっさに上光さんが幸せになれますようにと心の中で願った。今はそれだけが願いだ。自分の幸せなんてどうでも良い。一生懸命ただひたすらに生きてきた上光さんの未来が明るくあって欲しい。
次の日、上光さんは何事もないような素振りをしていた。いつも通り優しく元気な上光さんだった。今日の朝はオムライスとコンソメスープにした。朝から少し重いかもしれない。一人の時はお昼前に起きることも多かった。今は上光さんが居るから朝起きるのも気分が良く、鬱になることもなかった。
「今日もまた豪勢だね。いただきます」
上光さんの食べっぷりはいつ見ても心地が良い。
「今日は久々の休みだ。晩御飯を作ってあおいさんにご馳走したい。料理はしたことがないが、いつも作ってもらってるお礼をしたい」
「嬉しいです。実家を出てから誰かの手料理なんて食べたことがなかったので余計に嬉しいです」
つい笑みが溢れた。それを見て上光さんも笑った。
「それじゃ僕はお皿洗いをしてから買い出しに行ってくるよ。何を作るかは楽しみにしていて欲しい。あおいさんは休んでいてよ」
毎日仕事をして大変なのにいつも上光さんは自分のことを気遣ってくれる。本当に優しい人だ。
お昼を過ぎた頃、上光さんは戻ってきた。手には大量の食材を持っている。以前、料理のレシピ本を読んでいたことがあった。今日の為に読んでくれていたのかもしれない。エプロンをつけて台所に立つ上光さんの姿を見て不思議な気持ちになった。慣れない手つきで野菜を切っている。
「何か手伝いましょうか」
つい声をかけてしまった。
「気にしないでくれ。大丈夫。あおいさんは好きなことしていておくれ」
どうしても心配になってしまう。しかし、上光さんがそう言うなら従うしかない。その気持ちが嬉しかった。自分の部屋に戻り、掃除に耽ることにした。一時間ほど経っただろうか。
思えば、過去の写真は手元に一切ない。学生時代、何も良い思い出がなかった。いっそ過去など要らないと思い、ある日写真を捨ててしまった。思い返しても悲しい人生だった。時々、早くに自殺した兄はある意味で幸せだったのかもしれないと思う時があった。なぜなら、生きることは時に残酷だからだ。優しければ優しいほど生きづらい世の中に感じる。
しかし、この考えはタイムスリップして変わった。そういう意味ではタイムスリップして良かったのかもしれない。自分の生きることに対する価値観は大きく変わった。今はむしろ戦争で亡くなった人達の分までしっかり生きなければならないと感じる。それがあの時代を肌で感じた自分に出来ることではないだろうか。
戦争のない今がとても愛おしかった。好きな時にご飯を食べられる。空襲の心配をする必要もない。好きな洋服だっていくらでも着れる。好きな本だっていくらでも読める。当時はあり得ないことだった。だからこそ、それらに対する愛おしさが増す。たしかに自分の人生は悲しい出来事が多かった。しかし、それでも良いではないか。今こうして生きていられるならいつか幸せな出来事だってやってくるはずだ。事実、自分は上光さんと出逢えたではないか。生きていなかったら出逢えなかったはずだ。
「あおいさん、来てください。晩御飯が出来ました」
上光さんの声で目が覚めた。掃除をしてる途中で眠ってしまっていたようだ。外を見るとちょうど夕日が沈む途中だった。眠い目を開け、リビングに行く。美味しそうな匂いがしている。上光さんの手料理が並んでいる。白ご飯にだし巻き、具材たくさんの豚汁。美味しそうだ。よく見ると野菜の切り方が荒いが、上光さんの頑張りを感じた。
「凄いです。初めて作ったとは思えないです。何より、作ってくれるその気持ちが嬉しいです。ありがとうございます」
「そんなことは良いから早く食べておくれ。冷めてしまわないうちに。どうぞ」
お言葉に甘えて早速食べることにした。
「いただきます」
感謝の気持ちを込めて言った。まずは豚汁からそして、だし巻きを食べ白ご飯を口いっぱいに放り込んだ。とても美味しい。
「美味しいです。とてもとても美味しいです。本当に美味しい。幸せです。ありがとう、上光さん」
「美味しいを言い過ぎだよ。ありがとう。作った甲斐があった。料理作りがこんなに楽しいとは」
上光さんは嬉しそうに微笑んだ。噛み締めながら食べた。この時間がずっと続けば良いのにと心から思った。十分もしないうちに食べ終わってしまった。
「ご馳走様でした」
二人で声を合わせた。とても幸せな晩御飯だった。
「また作るよ。今度はもっと違う料理に挑戦してみるよ。いつも作ってもらってばかりだからね。お楽しみに」
上光さんが料理に目覚めてくれたのは嬉しい。戦時中の人は男尊女卑の印象があったが、上光さんは柔軟な考えを持っているようだ。そこも上光さんらしいと感じた。上光さんの休みはこうして終わった。
「実に平凡な一日だった。僕は幸せ者だ。あおいさん、ありがとう。僕は今ただ幸せだ。こんな気持ちを味わえるなんて何かの贈り物のようだ。どうして戦争で死んだ仲間ではなく自分がこの時代に来られたのか不思議でならない。申し訳ない気持ちになる。僕は」
僕はと言ったところで話すのを躊躇した。
「またこの話をしてるね。せっかく平凡に過ごせたのに申し訳ない。とにかく今日は愉快な一日だった。いつも側に居てくれてありがとう」
微笑む上光さんの表情は穏やかだった。こんなに穏やかな表情の上光さんは久しぶりに見た。その日はその表情を頭に思い浮かべながら幸せな気持ちで眠ることが出来た。きっと上光さんも幸せな気持ちで眠ったことだろう。こうして幸せな一日は過ぎ、お互いにとって忘れられない想い出へと変わった。
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