第八章〜深淵〜

道のカーブにさしかかった時だった。

思いもかけないことが起こった。クラクションを鳴らす車が目の前を通った。


「危ない。あんな車はここら辺で見たことがない。一体なんだ」

上光さんは驚いた顔をしている。


「もしかしたら」

「もしかしたら元の時代に戻れたのかもしれないです。少し待ってください」

隠し持っていたスマートフォンを出した。使えるようになっている。急いで母親に電話をした。


「もしもし」

「お母さん。あおいだよ。今何年の何日」

「急にどうしたの。今は令和四年の四月四日。あおい本当に急にどうしたの。元気にしてたかずっと心配だったのよ。ずっと電話なかったじゃない。どうしてたの」

「お母さん、ありがとう。元気だよ。ごめん、また電話するね」

母親の話を聞くことなく、電話を切った。今はただ元の時代に戻ってこられたことが嬉しかった。嬉しくて涙が出そうになった。


「上光さん、元の時代に戻れました。今は令和です。上光さんのおかげです」

「本当に。信じられない。これはやっぱり夢かもしれないね。とりあえずはあおいさんが戻って来られて良かった。ただ僕はどうすれば。僕は明日出撃しなければならない。ここに来るべき人間ではない。僕の仲間は明日死んでしまうのに僕だけ生き延びるわけにはいかない。みんなと約束したんだ」


上光さんは方向を変えて開聞岳のほうに向かおうとした。上光さんに死んでほしくなかった。不謹慎とは分かっていても一緒に元の時代に来られたことが嬉しかった。

どうにかして上光さんの気を紛らわせるしかない。


「わたしのせいで、ごめんなさい。今からタクシーを呼ぼうと思います。もう夜も遅いし、鹿児島中央駅まで向かって今日はホテルに泊まりませんか。それから色々考えましょう」


急いでタクシーとホテルの予約を済ませた。

目印となる場所でタクシーを待つものの、一向に来ない。三十分ほどしてようやくタクシーが来た。


車から見る景色は元の時代だった。

鹿児島中央駅に近付くとその光景に上光さんは驚いていた。人の多さ、車の多さ、高いビル、見慣れない建物や街並み。

上光さんにとっては全てが初めて見る光景だ。


「日本はこんなに成長したんだ。あの時のかけらは何も残っていないように感じる。みんなにも見せてやりたい。夢を見ているようだ。信じがたい」


鹿児島中央駅に着いてホテルに向かう。

ホテルの目の前には観覧車がある。イルミネーションで光る観覧車を見たときの上光さんの驚きようは凄かった。全てが上光さんにとっては初めての光景であり、驚くべきものだった。周りの人達は軍服を着た上光さんを見て驚いた。怪訝な顔をする人が多い。上光さんはどんな視線を向けられてもどこ吹く風という様子であった。


「上光さんのお部屋はここです。このカードを入れるとドアが開きます。わたし今から食材と上光さんの服を買ってくるので、少しだけ待っててください」


急いで近くのショッピングモールに足を運んだ。お弁当を数個と飲み物、上光さんの着替えを買えるものだけ買った。


「上光さん、あおいです」

何度か扉を叩くと上光さんは出てきた。

「晩ご飯と着替えを買ってきました。明日からこの服を着てください。今の時代は軍服を着てる人が居ないので、こっちのほうが今の時代では自然だと思いました」

「ありがとう。こんなに綺麗な洋服も綺麗なご飯も久しぶりに見た。白米に色んな食材。信じられない。日本は豊かになったんだね」

「お風呂も入れるので時間がある時にでも入ってください」


ガラス張りのお風呂を見て上光さんはまたしても驚いた。

「何から何までありがとう。ご飯を食べたらお風呂に入るよ」

「はい。わたしの部屋はすぐ横なので何かあったらいつでも来てください。わたしも晩ご飯を食べてお風呂に入って早々寝ようと思います。また明日の朝来ますね。今は何も考えずにゆっくりしてくださいね」


部屋に戻ってベッドに倒れ込んだ。やっと元の時代に戻ってこられた。タイムスリップしていたのが夢のようだ。でも夢ではない。上光さんの存在が自分がたしかにあの時代にいたことを証明している。


上光さんを元の時代に戻すにはまた天気の悪い日に開聞岳に行けば良いのだろうか。しかし、上光さんが元の時代に戻ったら特攻隊員として死ぬ運命が待っている。そんなのは嫌だ。


上光さんは仲間と一緒に死ぬべきだと思っている。ただ自分は上光さんを見殺しにすることは出来ない。例え、未来を変えてしまったとしても目の前の人間を見殺しにすることは出来ない。上光さんはあの時代で自分を守ってくれた。今度は自分が上光さんを守りたい。


重い身体を起こし、久しぶりにちゃんとしたお風呂に入った。お湯を好きなだけ浴びられることが嬉しい。シャンプーやトリートメントの良い香り、たっぷりの泡での洗顔。全てが幸せだった。あの時代では石鹸一つで全てを洗っていた。そのせいか髪はギシギシになった。


湯船に浸かると全ての疲れは吹っ飛んだ。お湯が身体を包み込み、心の中までほぐしてくれる気がした。幸せだ。今自分は幸せを感じている。


前はお風呂に入ることが面倒だった。

当たり前の日常でしかなく、仕方なく毎日お風呂に入っていた。湯船に浸かることもなく、シャワーで済ましていた。今はお風呂に入れることが幸せだと感じる。なぜ今までこの幸せに気づかなかったのだろう。当たり前のことは当たり前ではなかった。それはあの時代を体験したからこそ心から実感出来たのかもしれない。


湯上がりのあとはほわほわの感触のタオルに包まれた。スキンケアをする。ドライヤーで髪を乾かす。ここ最近はコールドクリームというものしか使っていなかった。それも少量だ。千恵子さんが貸してくれたものだったが、やはりそれだけでは肌がガサガサになった。


戦時中の人たちはとにかく身なりを気にする余裕もなく、毎日を生きることに必死だった。みんなそうだった。唯一のおしゃれはモンペをどんな風に着こなすかというものだった。


今はもう夜中に空襲が来たらと気にする必要もない。空襲警報が鳴ることもない。後はもうぐっすりと眠るだけだ。当たり前のはずの日常が奇跡のように感じる。全ては当たり前ではなかったのだ。


上光さんは今頃どうしているだろう。

仲間のことを考えて苦しんでいるのではないか。そう思うと自分の心も痛んだ。自分だけこの平和な時代を生きていいのか、そんな罪悪感が徐々に強くなった。上光さんも同じ気持ちに違いない。上光さんは仲間を残してこの時代に来たから余計に苦しいだろう。


どうしようかと悩んだが今までの疲れが途端にやってきて、目を開けていることさえ難しくなってきた。窓に目をやると月が見える。あの時見た月となんら変わりはない。


「お兄ちゃん」

目の前には兄がいる。駆け寄って抱き締めようとすると兄は一瞬だけ笑顔を見せ、消えていった。いつもこうだ。兄に触れることはいつだって出来ない。


そうして目が覚めた。夢だった。当たり前だ。兄はもう現実には存在しないのだ。会うことは永久に不可能なのだ。上光さんも死んだら夢に出てくるのだろうか。兄のように夢の中でも消えていってしまうのだろうか。そんなことを考えながら悲しい気持ちで再び眠りについた。

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