第七章〜開聞岳〜
何時間経っただろうか。
レインコートをすり抜けて、雨が体に染み渡る。息切れをしながら自転車を漕ぎ続けた。もう限界だ。
上光さんはひたすら走り続けている。時々こちらを確認しては大丈夫かと声をかけてくれる。どんな時でも上光さんは優しい。優しいところが兄とよく似ている。
ようやく開聞岳にたどり着いた。
雨は以前にも増して激しくなり、雷も激しくなってきた。海は人を攫いそうなほど、波を立てている。
「あおいさん、ようやく着いたよ。あの日と同じ行動をするんだ。僕も一緒に着いていくよ。大丈夫。安心して」
あの日と同じ行動。開聞岳が見える場所で何時間も海を眺めていた。
あの日と同じ場所は何処だろう。
「あの日はずっと開聞岳が見える場所で海を眺めていたんです。多分あそこがあの日いた場所と同じだと思います」
「あそこに行ってみよう。ただ波が高いから足元をすくわれないように気をつけよう。ほら、僕の手を持って」
上光さんは手を強く握ってくれた。温かい。
波が来ない場所を探り、地面に座った。
恐怖を覚えるほど波が暴れている。海の色も暗い。いつも見ている海とは違う恐怖を感じた。波に攫われたら恐らく溺れてしまうだろう。
ただただ海を眺めて時間が過ぎた。
何も変化が起きる気配はない。辺りの景色も変わらない。その間に何度か雷が鳴った。
「もう無理なんですかね。せっかく来てくださったのにすみません。あの日と同じ天気、同じ事をしているのに」
「まだ分からない。もう少しこうしていよう。それでも変化がないなら少し辺りを散策してみよう。まだまだ希望はあるよ。あおいさんは必ず未来に帰れる」
それからまた時間は過ぎた。
雨に打たれたせいか身体の震えが止まらない。上光さんはうつろな表情をしている。
突如、目の前に大きな波がやってきて足元をすくわれた。
上光さんは必死に自分の手を離すまいと引っ張ってくれている。波の力は強い。どんどん海の方へ引っ張り込まれる。恐怖だった。
上光さんを巻き込んではいけないと手を離そうとするものの、上光さんは離そうとしない。
そうしているうちに再び大きな波がやってきた。そのまま波に飲まれてしまった。
このままでは死んでしまう。今までの人生が走馬灯のように頭に流れた。
上光さんが何かを言っている。意識が朦朧として聞き取れない。息が苦しい。何かに引っ張られる感覚がする。
最後に振り絞る声でありがとうとさようならを伝えた。聞こえていたのかは分からない。そのまま自分は意識を失った。
何時間、意識を失っていたのか分からない。辺りは暗くなっている。雨も降っていない。星が見えるほどに晴れている。
気付いた時には地面の上に居た。生きている。自分は生きているんだ。
隣では上光さんが横になっていた。
深呼吸をしてから上光さんに声を掛けた。
「上光さん、上光さん」
声は震えていた。
「意識が戻ったんだね。良かった。本当に心配した。良かった良かった」
どうやら上光さんはあの後、自分を引き上げてくれたようだ。まさに命の恩人だった。自分は上光さんに迷惑を掛け、申し訳ないことをした。上光さんは真っ青な顔をしていた。罪悪感だけが募った。
「僕の考えた作戦が間違っていた。こんな日に海に来てはいけなかったね。ごめん。帰ってからもう一度考え直そう」
少し休憩してから自分達は再び三角兵舎に向けて進み出した。
自分は自転車を押して歩いた。その横を上光さんが歩く。またこうして一緒に居られることが嬉しかった。
「この天気だと明日はいよいよ出撃かもしれない。結局、最後まで見送ることは出来なかった。帰ってからもう一度作戦を考えるから希望は捨てちゃいけないよ」
「明日出撃なのに疲れてしまいましたよね。本当にすみません。作戦は考えなくていいので、ぐっすり眠って明日に備えてください。明日必ず見送りに行きますね」
「少しくらい寝なくても大丈夫だよ。寝れないくらいで身体に支障が出たら軍人失格だ。あおいさんが気にすることではない。それよりこんな時間まで帰ってこないとなると千恵子さんが心配する。少し急ごうか」
辺りはどんどん暗くなる。今何時なのかは分からない。身体は疲れているが、早く帰るためにも急ぐことにした。あれだけ濡れていた服もいつの間にか乾いた。
空を見上げると月と星が綺麗に輝いている。またこうして今を生きることが出来る。今はただそれが嬉しかった。
海の中を彷徨っている間、たしかに思った。
「生きたい」と。
こんなとこで死んでたまるかという気持ちになった。まだまだ生きていたい。あの瞬間たしかにそう思った。
兄は最後の瞬間、何を考えたのだろう。飛び降りてから地面に着くまでの時間、何を感じたのだろう。最後の瞬間、痛くなかっただろうか。苦しくなかっただろうか。何を思い浮かべただろうか。
そう考えて苦しくなった。痛いに決まっている。苦しいに決まっている。痛くないわけがない。身体も心も全てが痛かったはずだ。最後の瞬間まで痛い想いをしたのかと思うと耐えられない気持ちになった。
どうして優しい兄が自殺をしなければならなかったのか。本質的に会社の上司に殺されたようなものだ。あまりに酷いパワハラだった。
何のために勉強をして大学に行ったのか、就職をしたのか。兄が産まれてきた意味は何だったのか。これではまるで苦しむために生きてきたようなものだ。
兄は最後に「生きたい」と思わなかったのだろうか。そんな考えが頭を巡った。兄は平和な時代に産まれたのに死んでしまった。これが兄の運命だったのだろうか。運命は変えられないのだろうか。上光さんも死んでしまうのだろうか。そして、自分は見送る運命なのだろうか。どちらが辛いかは分からない。どちらともに違う辛さがあるだろう。
空を見上げると星が光った気がした。
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