第五章~夜空~

空が赤く染まっている。もうすぐ夜になる。

「夜空を見るのが好きと言ってたよね。良かったら今日一緒に夜空を見ないかい。いつも一人で見ているけど、たまには誰かと見たいと思ってね」

「もちろんです。この時代の夜空はきっと綺麗でしょうね。ぜひ一緒に見たいです」

上光さんとそんな約束をした。


三角兵舎にはみんな戻ってきている。

今夜も宴会だ。あらゆるところから食料を持ってきて、食べては飲んでのどんちゃん騒ぎだ。みんな何かを忘れようと必死にお酒を飲んでは笑っている。


たった一人を除いて。

上光さんはお酒も飲まず端のほうでみんなを眺めていた。

「おい、上光。なにしけた顔してんだ。そんな顔で出撃できるのか。ほら元気出せよ」

そう言ってお酒を渡したが、上光さんは飲もうとしない。

「僕はいいよ。そんな気分じゃない」

「もったいないな。美味しいご飯に美味しいお酒。大切な仲間たち。まぁ良い。上光の好きにすれば」

周りの隊員は諦めて、他の隊員と談笑している。


辺りが暗くなってきた頃、上光さんが駆け寄ってきた。

「そろそろ見に行こうか。良い場所があるんだ」

三角兵舎のある場所から少し離れた場所に行くと辺りは急に静かになった。

葉がこすれ合う音、風の吹く音が聞こえてくる。五月の知覧の風は心地よい。


上光さんは寝転がった。自分はその横で三角座りをした。

「ここで寝そべって空を見てると戦争をしてることを忘れるんだ。無事に晴れて良かった。数時間前の雨模様が嘘のようだ。星が綺麗だ。きっと明日は出撃できる。はい、これ。面白かったよ」

そう言ってあげたはずの本を手渡してきた。

「ありがとう。それにしても君は不思議な人だ」

「不思議な人。なぜですか」

「急に三角兵舎に来ただろ。こんなところに急に来る人は軍の関係者か新聞記者か、そんなもんだ。まして変な格好をしてるだろう。どう見ても不思議な人だよ」

「僕は頭がおかしくなったのかもしれない。笑わないで聞いてほしい。君は未来から来たのか。本の発行年月日に2021年と書いてあった。初めて会った時も錯乱していたし記憶喪失のように見えた。しかし、突然ここにやってきたなら話の辻褄が合う。出撃を前にして僕の頭は壊れてしまったのかもしれない」

顔では笑っているが、どうやら本当にそう思っているようだ。上光さんには本当のことを言おうと思った。一呼吸した。


「わたしは2022年から1945年に来ました。鹿児島の開聞岳から帰ろうと思ってる最中でした。雨が降ったり空が光ったり変な一日でした。帰りのバスも来なくて仕方なく、開聞岳から三角兵舎まで歩いてきたんです。きっと開聞岳にいる時点でタイムスリップしてしまったんだと思います。正直どうして良いのか分からなくて、今も未来に帰る術を考えてます」

「やっぱり。そんな未来から。信じられないが真実なんだろうね。君が嘘をつくようには見えない。まるで夢を見ているようだ。もしかしたら僕は本当に夢を見ているのかもしれないね」

そう言って、冗談っぽく笑った。すぐに真剣な顔に戻り目を真っ直ぐ見つめてきた。


「君が未来に帰る方法を早急に考えなければならない。こんなところにいたら空襲で君の命も危ない。知覧にも何度か空襲が来たから他人事ではないんだよ」


上光さんは自分の頬を触った。

「良かった。君は現実に存在している。幻ではない。たまに君が幻に見えることがあるんだ。これは僕が見てる夢なんじゃないかと。ごめんよ。君がいる未来は平和になったかい」

「この時代と比較すると日本は確実に平和になりました。ここに来て改めて平和の良さを感じました。それまでは戦争のない日常が当たり前でそんなことに感謝さえしていなかった気がします。思い出すのは終戦記念日くらいでした」

「そうか。終戦記念日か。この戦争はいつか終わるんだね。日本は平和になったんだね。僕たちが死ぬことで何か少しでも役立てたらそれで良い。それ以上は何も望まない」


何をどうしても戦争が負けたことは伝えたくなかった。伝えることで戦う意欲が削がれるかもしれない。

上光さんは明日、出撃するのだ。負ける戦争と知って出撃するなら何も知らないほうがまだ救いがある。知らぬが仏である。


沈黙が続いた。上光さんは空を眺めている。

月も星も現代より遥かに輝いて見える。

それはきっと月や星以外に明るい光が他にないからだろう。娯楽も限られている。

月や星を見ているだけで心が満たされた。現代では感じることのない感情だった。


「わたし月や星を見るのがずっと好きでした。でもこの時代の月や星はもっと特別な感じがします。戦争という非現実的な空間にいることを忘れられます」

上光さんはかすかに微笑んだ。

「人はなぜ戦争をするんだろう。なぜ人間同士で殺し合わなければならないんだろう。本当はこんなことは望んでいない。美しい自然を目の前にすると戦争をしていることが悲しく思えてくる。僕も平和な未来とやらを見てみたかった。君は僕の分まで生きるんだよ。僕は戦争で死ぬ運命だ。それはもう変えられない事実だ。逆に、君は戦争を切り抜けて平和な時代を生きる運命だ。僕たちはあくまでその土台になる。それがお互いの運命だ。運命を変えることは出来ない」


月に照らされた上光さんの横顔は美しかった。長いまつげに大きな二重瞼。その綺麗な目にこの世界はどのように映っているのだろう。

このまま時間が止まれば良い。そうして一緒に永久の時間を生きたい。明日なんて来なければいい。

しかし、時間は止まらない。残酷だ。出撃の時間は刻一刻と迫る。上光さんはもうこの世界から消えてしまう。もう永久に会えない。明日の今頃にはもう上光さんは存在しないのだ。そう思うと心苦しくなった。

大事な兄は死んでしまった。目の前にいる上光さんまで失いたくない。ただそれだけだった。人が死ぬのを見送るのはもう嫌だ。


突然、上光さんの手が自分の手に重なった。

「僕は明日この手で操縦桿を握り、敵艦めがけて突進する。この手が全てだ。何があっても操縦桿を離してはいけない。手を離すのは死ぬ時だけだ。これが僕に任された任務だ。君の手は温かい。君には未来も希望もある。その小さな手で色んな世界を切り開いていくんだよ。きっと平和な未来に帰るんだよ」

上光さんに死んでほしくない。そう思ううちに涙が出てきた。

上光さんは何も言わず、肩をさすってくれた。泣きたいのはきっと上光さんのほうだ。

下を向いたかと思うとすぐに立ち上がった。


「さて、そろそろ帰ろうか。僕は兵舎に戻って少し書き物をするよ。明日の朝は早い」

元の道を歩き、三角兵舎に戻る。上光さんが口笛を吹いている。故郷だ。とても悲しい音色に聞こえる。

月が照らす二人の影が切ない。もうこの影を見ることはないのだろうか。


「さようなら。また明日」

そう言い残し、三角兵舎に入った。

自分は心苦しい気持ちで千恵子さんの家まで歩いた。月に照らされる影はもう自分一人だ。涙が止まらない。


家に着いた途端、涙で濡れた顔を見て千恵子さんが驚いた。

すぐに千恵子さんのおばぁちゃんも出てきて涙を拭いてくれた。

「ほら、さつまいもの蒸かしたのがあるよ。これ食べて身体拭いて明日に備えてぐっすり眠るんだよ」

千恵子さんはおばぁちゃんと二人暮らしだ。家族は他に居ない。

食糧困難の時代に自分に食料を分け与えてくれ、見知らぬ自分を家に置いてくれる優しさが身に染みた。とても優しい人達だ。


「明日、早起きして桜の枝を取りに行こう。それを上光さんに渡そう」

千恵子さんはそう言って、自分の手を握り締めてくれた。

もう九時だ。明日は三時には起きて桜の枝を取りに行って、千恵子さんと一緒に見送りに行く。


布団に入ってから数時間が経過した。

眠ろうと思っても眠れない。隣の布団ではもうすでに千恵子さんが眠りについている。千恵子さんは自分のいない間も特攻隊員を何人も見送ってきた。十五歳の心にその光景はどのように映ったのだろうか。

千恵子さんはよくうなされている。それほど心が限界に来ているのだろう。


誰だって死ぬ人たちを見送るのは辛いはずだ。ましてやお世話をしていた人達を見送る千恵子さん達が辛くないわけがない。明日、自分も上光さんを見送るのだ。耐えられる気がしない。どうして耐えられるのだろうか。


時計の針だけが頭の中に響く。

十二時が過ぎた。上光さんの出撃まであと数時間だ。


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