第33話:話したいことがあるんだ
早朝、スマホが何度もバイブレーションし、俺は強制的に眠りの海から浮上する。
枕元のサイドボードに鎮座するデジタル時計は午前五時を示していた。
「……ふあ」
小さな欠伸をこぼし、寝ぼけ
彼女がどこに行ったのかも気になるが、今は俺を起こした原因に意識が割かれる。
「なんだ、これ……?」
メッセージをやり取りするアプリに時雨から嵐のような不在着信が連続していた。
無意味なことはしない彼女のことだから、俺は急いで電話をかけ直す。
「夜宮っ……! やっと、繋がった……!」
秒とかからずに時雨の切迫した声が聞こえてくる。
「時雨、落ち着いてくれ。一体こんな朝早くにどうしたんだ?」
「話したいことがあるのよ! とにかく今すぐに玄関を開けて!」
「はあ!? 俺の家の前に来てるのか!?」
「ええ、そうよ! 早くしてってばっ……!」
俺は寝癖を直すことすら後回しにして、扉を開錠する。
そこには真冬だというのに汗の粒を浮かべ、肩を上下させる時雨がいた。
「時雨……お前ここまで走ってきたのか……!?」
時雨の邸宅から俺の住むボロアパートまでは全力で走り続けても十五分はかかる。
お嬢様である時雨には車という交通手段もあっただろうに、余程気が動転しているようだった。
それに、俺の現住所も彼女に教えていなかったはずだ。
「はあ……はあっ……っ! 今はそんなことはどうでもいいでしょう……! とりあえず中に入れて! 外だと話せないのよ……!」
そう言って半ば強引に上がり込んだ時雨に気付け用に一杯の白湯を渡す。
それを一息に飲み下した彼女は深呼吸をして、窓際に寄りかかる。
「それで本当にどうしたんだよ? その慌てぶり、普段の時雨からじゃ考えられない」
「それは……それほど大切で重要な用件だからよ」
それから時雨はもう一度大きく空気を取り込み、深く息を吐いた。
取り乱していた彼女は努めて冷静を保っている。
直感が相当な負の出来事が伝えられるのだと告げる。
「夜宮、最初に言っておくけれど心構えをして。思うところはあるだろうけど、どうか落ち着いて聞いてほしいの」
そう言われて俺は生唾を飲み込む。
神経が研ぎ澄まされたせいか、時雨の口の動きがとてもゆっくりに感じる。
「貴方のお父さんが――遺体で見つかったわ」
「……嘘、だろ……?」
告げられた言葉は俺の予想を遥かに凌駕する内容だった。
心構えをしていたはずなのに、雷に打たれたような衝撃と共に、目の前が真っ暗になる。
――父さんが、死んだ?
「し、時雨……? それは冗談とか、じゃないんだ、よな?」
「私がこんな意地の悪い嘘つくわけがないでしょう……! ……それよりも」
時雨は気づかわし気に俺を見てくるが、今はそんなことを気にする余裕はなかった。
――父さんがいなくなって、覚悟はしていたはずだろ?
俺の心の声がそのまま聞こえるようだった。
中一の半ばで家を出て行ったっきり姿を消した父さん。
帰ってこなかったのだから、最悪の想定――死だって予想のうちに入っていたはずだ。
でも。
それでもやはり悲しいものは悲しい。
心の片隅では父さんは幸せに生きているのだと思っていたのかもしれない。
このショックを俺は必死のコントロールを試みる。
綾香の時のように、時雨に心無い八つ当たりをしないように。
「……時雨。俺は大丈夫だから……。だから、何があったのかを教えてほしいんだ」
「……分かったわ」
時雨は短く一言言うと話し始めた。
今から三日ほど前の真夜中に警察署に通報があったのだそうだ。
内容はこうだ。
”――山小屋の中に人の骨がある”
警察が出動し、鑑識などによる調査を行った結果、行方不明届の出されていた俺の父――夜宮和臣のものとDNAが一致したらしい。
死因は頭蓋骨の陥没がひどかったことから、鈍器のようなもので殴打されたことであるとされた。
また、死後少なくとも二年以上――多ければ三年程度経過しているという。
それらの情報を時雨の父親がいち早く手にし、時雨に伝えたのだそうだ。
そんなことをしたのは、俺が時雨に父さんの情報収集を頼み、時雨は時雨の父親にその件を頼み込んでいたからだ。
「今は十文字家がマスコミや関係各所に口止めをしているから、表沙汰にはなっていないわ。……何より、夜宮がお父さんの死を報道することを快く思わないと思ったから」
父さんの死の詳細を聞き入れば聞き入るほど、感情の荒波が押し寄せては心の防波堤を突破しそうになるのを必死でこらえていた。
――一体父さんが何をしたって言うんだ。
絵を描き始めると夢中になって人の話などほとんど聞かないし、少し強引で積極的に人と関わるほうじゃない。
だがそれは正直さと実直なまでの誠実さがあったからこそだ。
何をどう間違っても、人から恨まれるようなことをする人ではなかったはずだ。
俺はここまでで確信してしまった。
今まで父さんに会えなくても心の糸を保っていられたのは、父さんが幸せでいてくれていると思っていたからだ。
そう、信じていたからだ。
俺という荷物を捨てた父さんはようやく自分のやりたいことにまっすぐに打ち込めるようになったんだと、父さんが失踪してから一年後にはそう考えるようになった。
もちろん辛かったからこそ、俺は人と関わるのが極端に怖くなった。
父さんの行ったことを理解しながらも、その本質では裏切られることに恐怖を感じていたんだ。
いっぱいいっぱいになった硝子の器に亀裂が入る音がした。
「夜宮……」
「そうか、父さんは死んだのか。でも俺は大丈夫だから。わざわざ教えに来てくれてありがとうな」
俺は普段通りの態度で時雨に笑いかける。
時雨には色々なことで助けてもらっている。
学校では俺の陰口を叩く同級生を戒めたり、できる限り俺が過ごしやすいようにといつも近くにいてくれる。
学校以外でもそうだ。
こうして、俺の父さんのことなんて、時雨からしたら他人事だというのに、彼女の父親に頼んでまで情報収集してくれていた。
そこまでしてくれるのは友達の範疇から超えているとは知りつつも、それでも俺は頼り続けてしまっていたことに今更気づく。
何も、俺には返せるものがない。
だからこそ、俺はもう時雨に心配も迷惑もかけたくないのだ。
「夜宮っ……!」
俺よりも少し背が低い時雨が躊躇いがちに俺に手を伸ばす。
だがそれを俺は優しく返した。
「今の貴方は危なっかしすぎるわっ! なぜ、泣かないの!? 今こらえたら貴方はいつ泣くのよ!?」
「少なくとも今は、無理かな……。――悪い、少し外の空気を吸ってくる」
「よる――」
俺は駆けだしていた。
綾香がどこに行ったのかは分からないが、帰ってきたなら時雨が何とかしてくれるだろう。
今はただ無我夢中で駆けていることが、唯一の救いに思えた。
「なんで……っ……なんでだよっ……! 父さん!」
父さんは俺をおいて行くとき、『いい子で待っていてくれるかい?』と言った。
――一日目は父さんが絵を頑張っているところを思って、俺も頑張ろうと意気込んでいた。
――一週間が経つと、少しの寂しさを感じるようになった。
――一か月が経つと、これほど帰ってくるのが遅くなったことが今までになかったので心配になり、心細さが打ち勝つようになった。
――一年が経つ頃には、父さんの失踪と朝露事件の余波を受けて、俺は絶望した。その頃には自分が捨てられたのだろうと思うようになった。
最後に聞いた言葉は『再会の言葉』じゃなくて、『別離の言葉』だったんだ。
俺は川辺に壊れたばね仕掛けの人形のように倒れこむ。
不意にそこで気づいた。
「父さんは……知っていたのかな……」
父さんは遠くに絵を描きに行くときは必ず一週間前には俺に伝えることが慣例になっていた。
だが、あの時は突然のことだった。
あまりにも急だったため、俺が止めるほどにだ。
ひどい感情の渦に打ちのめされながらも、思考は加速していく。
「父さんにとっても予想外のことが起きていた……?」
ふと、気配を感じて後ろを振り返ると、綾香がいた。
それなりに遠くまで走ったというのに息切れの様子一つ見せない彼女は俺の隣の芝生に腰を下ろす。
「夜宮くん、探したよ」
「あ……ああ。時雨から何か聞いたか?」
「えと……うん……。本当は時雨さんに『夜宮のことは今は放ってあげたほうがいい』って言われてたんだけどね……」
綾香は昇ったばかりの朝陽を眺めている。
二月の終わりの早朝は凍てつくような冷気を纏っていた。
「もしかして、綾香は時雨と同じように慰めに来たのか?」
「うん……ついさっきまではね」
寝巻の上からウインドブレイカーを羽織っただけの俺の服の裾を掴んで、河原の石を投げる。
パチャパチャと小気味良い音を立てながら水面を切っていく。
「今の夜宮くんを見ていたら、そういうのを求めてないなあって思ったんだ」
「そこまで分かってるならどうしてきたんだよ……。今は、独りにしておいてほしいんだ」
「そうもいかないよ。お父さんの件、他殺だったんでしょ? なら、犯人を見つけたいとは思わない?」
綾香のその言葉がどういう意図で発されたものなのかは分からない。
それでも俺の選択は一択のみだ。
「ああ、見つけたいよ……。でも、俺にはその力がないし、警察だって水面下で動いてくれている」
「でも――わたしが夜宮くんに協力すれば今すぐにでも犯人を捕まえられるとしたら?」
俺はハッとして綾香の顔を見る。
頭に過るのは最悪の予想――限りなくないと思いたいが、綾香自身が父さんを殺したということだ。
俺はその不確かで根拠のない想像を断ち切る。
綾香はそんな人間じゃないし、父さんを手にかける動機だってないだろう。
一瞬でもそう思ってしまった自分自身を深く恥じる。
「ただし、条件があるの。わたしが協力したことに関しては誰にも絶対に言わないこと。でもすべてが終わったら、時雨さんにだけは言ってもいいよ。もう一つはわたしの言葉を疑わないこと。夜宮くんはわたしのことを信じてくれる……?」
提示された条件はすべて俺の意思次第で出来ることだ。
俺の脳裏には小さい時から今の今までの記憶が蘇る。
「信じるよ。俺は綾香を信じている」
「そっか……」
綾香は長く瞼を閉じた。
何を考えて、何を思っているのかを俺が知ることはない。
それでも構わないと思うのだ。
「夜宮くんのお父さんを殺した犯人は――」
とある一人の名前がはっきりと伝えられる。
鼓膜を震わせた綾香の声が無限ループをするように、回り続ける。
本当なのか、冗談じゃないのかと聞き返したかったが、綾香に対するこれまでの信頼と約束がそうさせてくれなかった。
それから、淡々と事件の断片的状況を話し始める。
本来、犯人か現場にいた目撃者しか知らないであろう情報を正確に。
「――最後の心残りがなくなればわたしは――」
全てを伝え終えた綾香の口元がかすかに動いたことに、俺が気づくことはなかった。
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