第18話:海って青くて大きいんだね

「わあ~! やっぱり海って青くて大きいんだね!」


八月に入って間もなく六月に約束した海に来ていた。

折角だからと都内の狭い海岸ではなく、湘南の広々とした海を眺めている。


「ああ、そうだな。悪いな、綾香の初海は湘南の海にしたかったんだ。早起き、大変だっただろ?」


東海道線を使って一本で行けるとはいえ、一時間程度はかかってしまう。

海を目いっぱい楽しみたいだろうと推察した俺は午前八時に待ち合わせをして、諸々の時間を差し引き、午前十時ごろに海に到着した。


「わたしはこの日を楽しみにしてたから、ぜーんぜん!」

「そこまで感動してくれるなんて思ってなかったよ」

「だってだって! こんなに間近ではっきり見たのは初めてだよっ! すごく綺麗……」


宝石のように目を輝かせる綾香に思わず笑ってしまった。


「ん? どうかしたの……?」

「いーや、何でもない。ただ、お前が子どもっぽく見えて面白おかしかったんだ」

「変な夜宮くん」


不思議そうに俺の顔を見て、それから再び海に視線を投げる。


「夜宮くんが海に来たのってやっぱり絵を描くために?」

「その話、まだ続けるのか……」


綾香は俺の過去を聞いてからというもの、ことあるごとに絵に言及してくるのだ。

その度にのらりくらりとかわすのだが、都度鋭い槍で突き通されるような幻痛を覚えるから不思議だ。


「ね、いいでしょ? 今日くらい」


砂浜に二人して腰を下ろし、仕方なく俺は話し出す。


「綾香は今日初めて海に来て感動しただろ?」

「うん! 夜宮くんも知ってるでしょ? わたしたちの地元は内陸部だもん」

「そう、海なし地域だったんだ。だから、俺は都会に来た時にまっすぐ向かったのが海だったよ」

「期待通りの風景だった?」

「正直に言うと、その通りだ。新天地でもやっぱり俺は絵を描きたかったんだよな……。俺みたいなやつを馬鹿って言うのかな」


あの頃は父さんもいたし、朝露事件に巻き込まれてもいなかった。

それこそ、猪突猛進に絵を描くことに励んでいた。

俺の自虐とも取れる言葉に綾香はすぐさま否定の言葉を重ねる。


「それは違うよ。夜宮くんみたいな人のことを、うーん、なんていうのかな……?」

「それを俺に聞かれてもな……馬鹿じゃないなら夢追い人、とかじゃないか?」

「そうかも!」


俺たちの正面を通り過ぎたカップルが不思議そうに視線を寄越す。

それはそうだ。

海に来たのに、海に入らず、『夢追い人』とか口走っているからな。


「まあつまりは、綾香の言うとおりだ。俺は海での一枚を絵に収めようと描いた」

「見せてほしいって言ったら?」

「無理だな。もうその絵は捨てたよ」

「えぇ! 夜宮くんが捨てるほどって……そんなによくない出来栄えだったの……?」


そういうわけではない。

綾香も俺の過去を知ったため、推察できるはずだがわざとズレたことを言っている気がする。

出来栄えはそれなりによかった。

だが、父さんの失踪と朝露事件をきっかけにすべてを捨てたんだ。

それを言っても綾香に丸め込まれてしまいそうだったので、適当に流すことにする。


「まあ、そんな感じだよ。色が色として知覚できないのによく似てる――と、そんなことを話しに来たんじゃないだろ? せっかくの海だ。水着に着替えて一緒に泳がないか?」

「……うん、それも、そうだね。じゃあちょっとだけ後ろ向いてて……?」


言われたとおりに綾香とは逆方向に背を向ける。

後ろから聞こえるのは布と布、あるいは布と肌がすれる音だ。


「もういーよ!」


俺が振り返るとそこには淡い水色のラッシュガードを着た綾香がいた。

前は開けられており、豊かな胸とすらりと伸びた脚がのぞく。

ただ水着でいるよりも、隙間から健康的な肌が覗くという意味で、背徳的な印象を受ける。


「どう? 夜宮くんはヨクジョーしちゃった……?」

「ぶっ……!?」


さらには予期せぬ不意打ちにタジタジな有様である。


「っ!! 下らないことは言うなよな……! 焦るだろ!」

「ふふ、ごめんごめん! ほんの冗談だって! ……それでさ、真面目なところわたしの水着、どう思う……?」

「……正直、すごく可愛いよ……。っ! もうこれ以上は無理だ……」


付き合ってもいない綾香に対して、まるで恋人にするかのような言葉を口にして、これでは羞恥プレイもいいところだ。

俺は視線を砂浜に落とす。

すると、柔らかい手が俺の手を取り、海に駆けていく。


「わ……! ちょっ……!」


ザッパーン!

悲鳴もそこそこに、海の波しぶきに顔面を打たれる。


「あははははっ! 夜宮くんの今の顔、すっごく面白い! そーれっ!!」


綾香は両手いっぱいに海水を掬うと俺に向けて解き放つ。

真夏の蒼海に俺と綾香が放つ水しぶきが宝石のように輝く。

ああ、眩しいな。

ふと、そんなことを考えてしまう。

海に来たことは確かにないが、こうしてよく遊んだものだ。

今はもう、時間は流れ、何もかもが変わってしまったけれど。


「……ん? どうかしたの、夜宮くん?」


鋭敏に俺の変化に気づいたのだろう、綾香が心配そうに視線を送ってくる。


「いや、なんでもないよ……! 折角の海だ。俺も楽しまなきゃ損だよな……!」


お互いに心からの笑顔を見せて、楽しかったことは言うまでもない。



♢♢♢



だが、それまで毎日のように訪ねて来ていた綾香は次の日から姿を現さなくなった。

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